終戦直後

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●三大経済民主化

・1945年八月、第二次世界大戦は終わった
※という事になっている。ところで戦争終わった筈なのにそれでも侵略をやめなかった謎の国がありましたね。忘れてる人は政治分野第四章の国際政治を復習しましょう

・終戦後、日本は連合国軍によって占領され、統治される事になる
⇒と言っても、その最高司令部(GHQ)の長がアメリカ合衆国軍元帥だったところから分かる通り、基本的には「アメリカ軍に占領され、統治された」と思ってよい

・さて、終戦直後の日本の占領政策について、見ておくべき動機が三つある

・まず、アメリカ人は基本的に、日本の事を「後進国」だと思っていた
例1:暴君(天皇の事)の圧政に人民が苦しんでいる
例2:暴君の政府と繋がった大企業によっても、人民は搾取され苦しんでいる
例3:そもそも王とか貴族とかいる時点で時代遅れ。中世か?
⇒以前から言っているように、アメリカ合衆国は「英国王の圧政に立ち向かう」という形でできた国。その為、王がいるとかそういうのだけで「後進国」と思う。しかも黄色人種は当時の白人からすれば「黄色い猿」なので余計である

・また、日本の占領統治に関わったのは、どちらかと言えばアメリカでは非主流派の人々だった
・アメリカの主流派は「自由最高!」「社会権? 社会主義者だ、殺せ」みたいな感じ
・逆に言えば、アメリカの非主流派は社会権を重視する
・つまり、庶民を助ける事を重視する

・最後に、「日本が二度と復活できないように、徹底的に叩き潰してやろう」という思惑があった
・「日本人のような下等な黄色い猿が、白人という世界最高人種に挑戦するなど、あってはならない」
・「日本という地域は、未来永劫二等国であり、後進国であらねばならない」
・「その為に、社会も、経済も、文化も徹底的に破壊しよう」
・そういう思惑も、あった
⇒と言っても、終戦するとすぐ冷戦が始まり、日本列島はアメリカ軍の最前線基地になる。その都合から、この思惑については急速に消えていくのだが…それでも初期は、そういう思惑があった

・先に挙げた二つの事情から、占領軍は「圧政からの解放者」として振舞った
・その最大の例が、三大経済民主化である
・一方で、最後に挙げた「日本を潰す」という思惑も、その背後で蠢いていた

・三大経済民主化とは、以下の三つである
1:【財閥解体】
2:【労働】関係の【民主】化
3:【農地改革】

○財閥解体

・財閥解体は、「暴君の政府と繋がった大企業によって、人民は搾取されている」という発想に基づく
※実際のところ、仮に独占資本主義状態であったのであれば、日本経済にとっていい状態ではない
・そこに、「日本を潰す」という思惑が悪魔合体して実行されたものである
※独占資本主義みたいな、一部の超大企業しか存在しない、みたいな寡占・独占状態は、それはそれで問題。だが一方で、大企業が全く存在しない、というのも困る。それこそ中小企業しか存在しない国に外国の大企業が乗り込んできたら、国産企業が残らず駆逐されてしまいかねない

・こうして、1945年の秋から、巨大企業を片っ端から潰す財閥解体が始まった
・持株会社整理委員会が発足し、この委員会が「財閥」と指定された巨大企業を潰していく
⇒部門別に解体して売却したり、例えば三菱本社のように完全に解散させたり
・この財閥解体に関係して制定されたのが【独占禁止法】と[過度経済力集中排除法]であった
⇒どちらも1947年初頭制定

・この財閥解体は、「人民を搾取する大企業を潰す」に「日本を潰す」がのっかったものである
・故に完遂されていれば、日本の経済力はボロボロになっていただろう
・しかし実際には、独禁法と集排法が成立した1947年頃から風向きが変わり始める
・この頃から、米ソの対立が激しくなり始めたのである
・つまり、「日本は対東側の最前線基地」という認識が、アメリカ側にも出てきたのだ
・故に、(日本を潰すという意味での)独占禁止法は骨抜きとなり、財閥解体も中途半端で終わった
⇒だからこそ、かつての財閥が現在も生き残っているのである。例えば三菱財閥は三菱グループ、三井財閥は三井グループという形で生存している

○労働関係の民主化

・労働問題で詳しくやったので、ここではざっくりと

・GHQは「圧政に苦しむ人民を救う」路線の一環として、労働問題についても切り込んだ
・その政策は様々だが、例えば治安維持法のような労働運動抑圧法を撤廃していった
・また、日本国憲法で【労働三権】が確認され、いわゆる【労働三法】も制定されていく
⇒1945年に【労働組合】法、1946年に【労働関係調整】法、1947年に【労働基準】法
・そして、全国の労働組合の連合組織(協力組織)も成立していった
⇒1950年、[日本労働組合総評議会(総評)]結成。現在は、[日本労働組合総連合会(連合)]と[全国労働組合総連合(全労連)]が二大勢力である

○農地改革

・欧州諸国では、近代の直前になると、農民が二種類に分離した
・即ち、窮乏して他人に土地を売り渡し、他人の土地で耕作して僅かな賃金を得る小作人
・そして、金持ちとして他人の土地を購入し、多数の小作人を使役する大地主である
※地主は、批判的に[寄生]地主と呼ばれる事もある

・実を言えば、これは日本も同じだった
・明治初期までには、農家は大土地所有者として小作人を使役する富農と、貧乏な小作人に二極化した
⇒明治初期の松方財政がトドメになった。これで大不況になり、二極化が一気に進んだ
・しかも、時代は自由権重視の古典経済学全盛期。実力主義の時代
・貧乏な者はより貧乏に、金持ちはより金持ちに…結果、二極化はどんどん進行していった

・ところで。大日本帝国に於ける統治は、常に盤石で完璧だった訳ではない
・大日本帝国期は、国の命令は絶対だった…みたいな印象があるが、別にそんな事はない
・国民に遠慮してできなかった政策というのも、多くある
・その中の一つが、この農地改革であった
⇒ざっくり言ってしまえば、地主から土地を取り上げて小作人に分配するのが農地改革。大日本帝国政府としてはこれをやりたかったのだが、やれば地主が反乱を起こしそうな勢いであり、とてもできなかった

・そんな、「農地改革やりたいけどやれない」政府と、「圧政に苦しむ人民を解放せよ」というGHQ
・この両者の意図が一致し、農地改革は実行に移される事となった

・1947年から行われたこの農地改革は、大成功を収めた
・1950年には、自作農が九割になったとされている
⇒自分の土地を自分で耕す農家を自作農と呼ぶ

・日本国政府は大日本帝国以来やりたかった小作人救済ができたし、GHQも圧政に苦しむ人々を救えた
・またアメリカ本国から見ても、この政策は大成功だったろう
⇒地主に搾取され困窮していた小作人層というのは、共産党の強力な支持基盤だった。これから冷戦が始まる、これから共産主義と戦うというこの時期、共産主義の支持基盤を潰しておくのは大事である

・ただ、負の遺産もあった
・現代の農業は機械化が進み、「大きな土地で」「少人数で」「機械で農業」が可能になった
・これが実現できれば、経費を削減でき、安く大量の農作物を収穫できる
・これは換言すれば、大企業が農業をやる、というのが可能になったという話である
⇒昔は機械なんかなかったから手作業でやる他なく、大企業が農業をやると言っても限度があった

・しかし日本の農業は、農地改革をやってしまった
・つまり、大企業がやるような「大きな土地で」「少人数で」「機械で農業」ができなくなってしまった
・既に見たように、中小企業は必要なものだが、「中小企業だけ」という産業はまずい
・中小企業だけの産業は、大企業、例えば外国の大企業が乗り込んでくると死ぬ
・故に日本の農業は今や、「政府の保護がなかったら速やかに死ぬ」ものになってしまったのである

●戦後混乱期

○概説

・先程までで、終戦直後に行われたGHQの目玉三政策を見た
・ここからは、できるだけ時系列順に、終戦~1950年までの日本経済の動向を見ていこう
⇒基本的には、敗戦や財閥解体で日本経済が壊れてしまったのがこの時期。配給制が非現実的なものとなり、食糧管理法違反事件(詳細は政治分野第二章の生存権を参照)が起きたのもこの時期である。日本円の価値が破壊され、一般の感覚からすればハイパーインフレと呼んでも差し支えない状況に陥ったのもやはりこの時期である。この混乱期は、この混乱期は、1950年に起きた朝鮮戦争によって、日本経済が再浮上のきっかけを掴んだところで終了する…とされるのが普通である
※ハイパーインフレについて、歯に何か挟まったような言い方をするのは、確かにすごいインフレはすごいインフレなのだが、「本当にハイパーインフレか?」と言われるとまぁそうでもない。敗戦直後のドイツ帝国(パン一個買うのにもトランク一杯の紙幣が必要、百兆マルクなんて紙幣も製造された)とか、敗戦直後のハンガリー王国(一垓ペンゲー紙幣が印刷された。一兆の一万倍が一京で、その更に一万倍が垓)とか、そういうのをハイパーインフレと言うので…それに比べると、終戦直後の日本のインフレは「かなりヤバいインフレ」程度のものである。ハイパーインフレほどではないがヤバいインフレ…という事で、以後、スーパーインフレと呼ぼう

日本経済 国際経済 政治史
1945 終戦労働組合法成立 IMF設立 第二次世界大戦終結
1946 日本国憲法公布労働関係調整法成立 IBRD業務開始
1947 日本国憲法施行労働基準法成立農地改革開始財閥解体開始(独占禁止法、過度経済力集中排除法も成立)傾斜生産方式実施開始(復興金融金庫も開業)インフレのタガが外れる GATT締結(日本未参加) 東西冷戦本格化(トルーマン・ドクトリン実施やコミンフォルム結成等)
1948 大絶賛スーパーインフレ中経済安定九原則 GATT発効(日本未参加) 第一次ベルリン危機
1949 ドッジ・ライン(超均衡財政、単一為替相場設定等)シャウプ勧告インフレは安定する代わりに安定恐慌で大不況に
1950 戦争特需で景気が回復し始める 朝鮮戦争
1951 サンフランシスコ講和条約旧日米安保条約締結
1952 ECSC発足 李承晩ライン日華平和条約

・第二次世界大戦は、日本という地域に甚大な被害を齎した
⇒三百万人に及ぶという人名の損失は言うに及ばず、主要都市は軒並み焼け野原と化し(空襲)、貿易を含めた海上輸送を担う船舶も軒並み壊滅、戦後の経済成長を担うべき工場群も大きな被害を蒙っていた

・ところで、以前見たように、インフレとは「物価上昇・貨幣価値下落」「需要過剰・供給過少」
・つまり、例えば供給が少なくなったり、需要があまりにも過剰になったりすれば、インフレは進行する
・他にも、通貨を沢山作り過ぎて通貨の価値が下がってしまっても、インフレは進行し得る
・と言っても、ハイパーインフレにせよスーパーインフレにせよ、そう簡単には起きない
・例えば、供給。国全体の供給能力というのは、そこまで急激に減らない
・基本的にハイパーインフレとは、敗戦等で国が壊れてしまうと起き得る
⇒敗戦で国土全体がボロボロになり、工場も全部壊滅した、とか。敗戦で国そのものの信用がなくなり、国の信用を基に発行していた通貨の信用もゼロになった、とか。そういう風にならなければ、ハイパーインフレは基本起きない
・そして日本は、敗戦したのである

・ただ結局、大日本帝国は本格的な本土決戦をしなかった。故に、国土が完全に壊滅した訳ではなかった
・また政府自身も、インフレ抑制に努めていた
※だから、最終的にもスーパーインフレで済んだ訳である

・と言っても、敗戦によって日本政府が発行する通貨(国債を含む)が大打撃を受けたのは事実である
・故に、1946年までは、「凄いインフレだけど政府は抑制に努めている」と言える状況だった
・しかし1947年からは、タガが外れてしまう
・きっかけは、日本の経済復興策であった

・終戦直後日本の経済復興策は、日本国内の復興策、そして国外からの支援の両輪で構成された
⇒この両輪によって日本が経済復興を成そうとしている姿を、後にドッジが[竹馬経済]と呼んだ
・国外からの支援は、主に米国から行われた
⇒いわゆる[ガリオア]資金と[エロア]資金。どちらもアメリカ合衆国の軍事予算から出ている。飢餓等による社会不安を防止して軍事占領を補助する目的のものがガリオア資金。経済復興目的のものがエロア資金である

・一方国内の経済復興策は、1946年末、【傾斜生産方式】の実施が決定される
・この政策は1947年から本格的に実施されていくのだが…
・これが、政府によるインフレ抑制のタガを外してしまう

・傾斜生産方式というのは、要するに、「日本経済の供給能力を復活させよう」という政策である
⇒既に日本国政府は高インフレに苦しんでおり、これを何とかしたかった。そしてインフレが「物価上昇・貨幣価値下落」「需要過剰・供給過少」である以上、戦争で工場が破壊され、供給能力が極端に下がってしまったという事実が、大きな要因である事は明らかだった。故に、供給能力の復活は急務だった

・いくつかの重要な産業を、国家目標として重点産業に指定する
⇒鉄鋼業、石炭採掘(当時は石炭がまだ大々的に使われており、鉄鋼業の操業に必要だった)、化学肥料(当時の日本は食糧難)、電力(実は当時の日本は電力も不足しており、輪番停電とかもやっていた)等
・ここに戦後日本の力を注ぎ込み、産業を復活させ、供給能力を復活させる
・これを以って、国内の物資欠乏状態を解消し、またインフレも抑制する
・これが、傾斜生産方式であった

・当然、傾斜生産方式を実現するには元手となる資金が必要である
・その為に、【復興金融金庫】、通称【復金】が1947年初頭、開業する
・ここが、一種の赤字国債を発行して、傾斜生産方式の実施資金とした
・そしてこれが、何とか抑制しようとしていたインフレのタガを外してしまった

・知っての通り、インフレとは「物価上昇・貨幣価値下落」「需要過剰・供給過少」である
・ただでさえ敗戦で、日本は供給能力が下がっていた
・しかも財閥解体が始まり、日本の供給能力は更に下がっていく
※財閥解体開始も、傾斜生産方式開始と同じ1947年
・その上敗戦で、貨幣の信用度というのも下がりつつあった
・この状況で、国債をバリバリ発行した訳である
⇒既に見たように、国債は通貨の一種とも考えられる存在である。通貨流通量が増えれば、通貨の価値は下がる(何であっても、一般に、たくさんあるものは価値が下がる)。これがトドメとなって、タガが外れたようなインフレになってしまった
※いわゆる復金インフレ

・傾斜生産方式は、必要なものと言えば必要なものだった
・例えば、終戦直後、石炭の供給量は目に見えて減っていた
・故に、国内輸送の要たる鉄道が止まる可能性はあった
・鉄道が止まれば、農村から都市に食糧を輸送する事さえできないのである

・とは言え、スーパーインフレは問題である
・実際、1948年には、GHQから【経済安定九原則】が出ている
⇒GHQから日本政府への「こういう事をしろ」という勧告。主にインフレ終息に向けての内容で、「予算の均衡」「徴税強化」「貿易改善」等が要求されていた

・そして、1949年にはジョゼフ・【ドッジ】が登場する
・彼は元々デトロイト銀行の頭取であり、GHQ経済顧問として来日している
・そして、【ドッジ・ライン】と呼ばれる経済政策を実施するのである

・はっきり言って、傾斜生産方式は極端な政策だった
・一方、ドッジ・ラインも、負けず劣らず極端であった
・何せその中心政策は【超均衡財政】と呼ばれるものであった

・一般に、政府の収入と支出がイコールになる事を目指す財政政策を【均衡財政】と呼ぶ
・基本的に、この財政政策は、一般会計に於ける均衡を目指す
・しかし超均衡財政では、特別会計、政府関係機関予算も含めた総予算での均衡を目指すのである
※一般会計、特別会計、政府関係機関予算については経済分野一章の『財政、予算、会計』を

・何だかんだと言って、当時の日本国は敗戦したばっかりのボロボロの国である
・収入は少なくて当然、支出は多くて当然と言える
・そういう状況で超均衡財政みたいな、超好景気の時にやるような極端な事をしたらどうなるか?
・勿論、大不況になるのである

・いわゆる【安定恐慌】という奴で、インフレは収まったが、大不況で国内経済はボロボロになった
・しかし、ドッジ・ラインが出た翌年、1950年。【朝鮮戦争】が勃発する
・深刻な不況だった日本は、この戦争による【特需景気】に沸いた
⇒いわゆる【朝鮮特需】。これによって、日本の経済は再浮上のきっかけを掴むのである

○その他のドッジ・ライン

・ドッジ・ラインで行われたのは、超均衡財政だけではない
・基本的には、先の経済安定九原則を実施したのがドッジ・ラインであり、色々とやっている
⇒経済安定九原則はあくまで勧告。それを実際にやる為に来日したのがドッジであり、彼の行った経済政策がドッジ・ラインである

・その中でも、超均衡財政に並んで有名なのが【単一為替相場(単一為替レート)】の設定である

・ここで混乱する人が多いので、外国為替相場について改めて解説しよう
・知っての通り、外国為替相場とは「1ドル100円」とか「1ユーロ100円」みたいなものである
・そして、今まで外国為替相場の分類方法については、「固定」か「変動」かしか教えていなかった
⇒例えば現代の日本は、「1ドル△△円」が毎日変化する、変動為替相場制を採用している。経済ニュースで毎日「今日の円相場」のコーナーがあるのはそういう事

・実はもう一つ、「単一」か「複数」かという分類方法もある
⇒複数為替相場というのは、「紙の輸出入に関しては1ドル100円」「鉛筆の輸出入に関しては1ドル200円」みたいに、モノに応じて為替相場を変えるもの。逆に単一為替相場制は、現代日本と同様、「モノに応じて為替相場を変える」という事はしない。1ドル100円なら、何を輸出しようが何を輸入しようが1ドル100円

固定 変動
単一 ブレトン=ウッズ体制期の世界各国 現代日本
複数 終戦直後の日本

・要するに、こう(↑)いう事である
・例えばブレトン=ウッズ体制期の世界各国は、「単一」で「固定」である
・現代日本を含む現代の世界各国は、「単一」で「変動」である

・そして第二次世界大戦直後、日本は国際経済から基本、切り離されている状態であった
・外国為替相場は、占領軍の方針により、【複数】で【固定】であった
⇒どうやら、「終戦直後は諸々の事情がある(例えば敗戦で経済が壊れてるとか)から、緊急避難措置として、日本を国際経済から切り離そう」「その為に、複数為替相場を採用しておこう」というような意図があったらしい

・とは言え、いつまでも日本を国際経済から切り離しておくつもりはなかったようだ
・ポツダム宣言にも、「日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルベシ」とある
・日本を国際経済に再び参加させるべく、【単一】為替相場の設定が行われた訳である
⇒つまり、【単一】で【固定】になった。具体的には、【1】ドル【360】円になった

○シャウプ勧告

・ドッジ・ラインが実行された1949年に出た勧告
⇒勧告内容が実施されるのは1950年、1951年の話だが、勧告が出たの自体はドッジ・ラインと同じ1949年という事で、ここで紹介する

・ドッジは基本、経済安定九原則を実施した人物であるが、全てをやった訳ではない
・経済安定九原則には「徴税強化」もあったが、この点については別の人物を呼んだ
・呼ばれて来日したのがカール・サムナー・【シャウプ】である
・彼は、戦時中に間接税中心となり、また複雑化していた当時の日本の税制を調査
・そして、「直接税中心にせよ」「もっと簡素な税制にせよ」というような事を勧告する
・これが、【シャウプ勧告】である

・この勧告内容は、1950年以降、実施されていく
・そして、現代日本の税制の、基礎となっていくのである

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