日本経済テーマ史

●産業構造の転換

・半分ぐらい復習になってしまうが、改めてテーマとして取り上げる

○概要

・まず、中学社会、何なら小学校の社会でやったように、世の中の産業は三種類に分けられる
1:【第一次産業】(農業、林業、鉱業、漁業等。自然にあるものを採集、もしくはその延長)
2:【第二次産業】(建設業、製造業等。魚を工場で缶詰にする、とかはこっち)
3:【第三次産業】(運輸業、金融業、情報通信産業等。物質的な何かを生産しない産業)

・この分類は一般に、経済学者[コーリン・クラーク]によるものだとされる
・実際のところ、彼は過去の学者の学説をよく研究していた人物のようである
・どうやら彼は、「過去の仮説に裏付けを与える」活動を結構行っていたらしい
・この分類もそうらしく、過去の経済学者が作った分類を彼が研究し、根拠を与えたもののようである

・クラークが過去の経済学者の説を強化したものは、他にもある
・彼がウィリアム・【ペティ】の学説を研究した結果の、いわゆる【ペティ=クラーク】の法則である
⇒どんな国、地域でも、歴史の進展や経済の成長に伴って、【産業構造】が変化していく。即ち、主要産業が第一次産業⇒第二次産業⇒第三次産業と変化していく…というもの

・また、第二次産業については詳しく見る必要がある
・と言うのは、第二次産業≒工業と言っていいぐらい、工業が重要なのだが…
・この工業、いわゆる軽工業と重工業に分かれており、性格が全然違うのである

・この二つの言葉は、元々、その工業の作る商品が軽いか重いか、の違いである
・即ち、軽工業であれば服や絨毯のような繊維産業や、食料産業等々
・一方、重工業であれば鉄鋼業や機械製造業等々がこれにあたる
※尚、化学工業は一般には重工業に含まれるが、敢えて「重化学工業」と呼ぶ場合もある

・そしてまた、面倒なのが、世界大戦期以前と以後で、重工業は明らかに質が違うのである
・世界大戦期以前、重工業の主な燃料は石炭であったし、商品も戦後とはかなり違う
・例えば自動車が重工業の主要商品となったのは、世界大戦期が終わってからである
⇒自動車を世界大戦期から作りまくっていたのは、アメリカ合衆国ぐらいなものである。現代で自動車産業と言えば日本車、ドイツ車という感じだが、どちらも第二次世界大戦直前~大戦中の投資が戦後になって実った形である
・化学工業もやはり、基本的には世界大戦期が終わってから世界中で発展したものと言える
⇒自動車同様、世界大戦期にはもうあったが、本格化したのはいつですかと言われると…

・まぁともあれ、工業と一口に言っても色々ある訳である
・そして一般に、国の工業化は軽工業に始まり、やがて重工業、もしくは重化学工業が盛んになっていく
・このような変化を、経済学者ワルター・グスタフ・[ホフマン]にちなみ[ホフマン]の法則と呼ぶ

・ともあれ、経済成長を続ける先進国は、第二次産業中心の国になる
・第二次産業の中でも重工業が強化されていく
・同時に第三次産業も強くなり、経済はいよいよ発展していく

・そうやって強くなった経済は、しかしやがて、衰えていく
・経済が弱くなっていく中で、最後まで生き残るのが第三次産業である
・こうして、経済の重点は第三次産業に移るのである
⇒少なくとも近代以降、多くの先進国が何故かこうなった。第二次世界大戦直後、他を圧する経済大国だった頃の米国は第二次産業(つまり製造業)が中心であり、世界中に商品を輸出しまくった。しかし今では産業の空洞化が進み、1980年代のクリントン政権期以降、金融業をはじめとする第三次産業が屋台骨、という国に変わったのである。だからこそ、2010年代のトランプ大統領は製造業(第二次産業)を国内に呼び戻したが、それでも金融業に有利な「強いドル」政策は続いている。結局、令和三年現在の米国経済を支えているのは、第三次産業なのである。かつて大英帝国として世界を制したイギリスも、やはり、衰退した後は金融業をはじめとする第三次産業で経済を保たせる形に変わった

※実際には、必ずこのようになるとは限らない。例えばイギリスなんかは、産業革命が起きてから第二次産業が伸びて経済を支え、次いで第三次産業が伸び、最後に第二次産業が衰えた。典型的な、ペティ=クラークの法則通りの経過をたどった国である。だから「親子三代に渡ってずっと工場(第二次産業)労働者です」「けどこの国の第二次産業ももう駄目だし、次の代の就職先は第三次産業かなぁ」みたいな家が普通にある。一方、後で詳しく述べる大日本帝国及び日本国は、第二次産業と第三次産業が同時に強くなったような国であり、そういう家はあんまりない

○日本の産業構造の転換

・世界で最初に機械を大々的に導入し、産業革命を起こしたのはイギリスである
・そのイギリスは最初、軽工業の分野で機械化を果たした
・イギリスと同様、開国後の日本もまた、最初は軽工業の分野を発展させた
・やがて、日露戦争の頃から、重工業をも発展させ始める
・同時に、第三次産業も本格的に伸び始める

・ただ、戦前の日本はやはり、戦後に比べると明らかに【第一次産業】の就業者が多かった
・また第二次産業内で見ても、明らかに軽工業の比率が高かった
・これが、戦後の高度経済成長期に大きく変わり始める

~ここから日米貿易摩擦の復習~
・1960年代には[繊維]製品が主要な問題になった
・1970年代には、[鉄鋼]製品、[カラーテレビ]、工作機械が主要な問題となった
~ここまで日米貿易摩擦の復習~

・1960年代までの軽工業が、1970年代ともなると重工業が主力になったというのが分かる
・高度経済成長期に第二次産業が日本の主要産業として成長する中、重工業の比率が増えていったのである

・また、高度経済成長期に第二次産業が成長するのと歩調を同じくして、第三次産業も発展した
⇒これは高度経済成長期に限らず、明治維新後日本経済の特徴と言える。基本的に日本は、第二次産業と第三次産業が同時に伸びてきた国なのである。ただ第二次と第三次どっちが主要産業だったかと言えば、少なくとも高度経済成長期までは第二次産業であった
⇒高度経済成長期を通して、第一次産業の就業人口は減り、第二次産業と第三次産業の就業人口は増えていった。こういう現象を【産業構造の高度化】と呼ぶ

・そして1970年代になると高度経済成長期が終わり、また二次に渡った石油危機が起こる

~ここから復習~
・実際、石油危機以後(つまり安定成長期)の日本国では、[省エネルギー]型の産業が伸びた
・石油危機以前(つまり高度経済成長期)は、石油を湯水の如く使う[素材]産業が伸びていたのだが…
※鉄鋼業や石油化学工業、パルプ工業などをこう呼ぶ
・石油危機以後は、そこまで石油を使わなくていい産業が伸びた訳である
・その代表例が、[加工]、[組立]系の工業である
・分かりやすく、その最たる例を言ってしまえば、自動車産業である
⇒現代でも日本国の代表産業となる自動車産業は、ここから急激に伸びた訳である

・この産業の変化は、[資本]集約型産業から[知識]集約型産業へ、という形でも説明される
・即ち、金融業や情報通信産業のような、知識労働を主体とする産業の方が省エネである
・同じ製造業であっても、単純な機械を作るより高度な機械を作った方が省エネである
⇒分かりやすく言えば、大型の機織機を作るのと小さなPCを作るの、どっちが省エネかという話である
~ここまで復習~

・そして1980年代からは徐々に、日本国の第二次産業の衰退が起こってくる
・特に1985年のプラザ合意以降、日本円は急速に高くなった
・既に見たように、円高なら輸入が有利、円安なら輸出が有利である
・国内で商品を製造して外国へ輸出する、という業態は徐々に衰退していかざるを得なかった
・また、この頃から新自由主義的な考え方も浸透し始めていた
・日本人を日本国内で雇うより、外国に工場を作って外国人を雇った方がいいと、日本企業が考え始めた

・この傾向は1991年のバブル崩壊以降、加速していく事になる
・こうして、現代日本の第二次産業は衰退を始めた
⇒こうして、第二次産業の就業人口もまた、減り始めた。第一次産業の衰退も勿論止まらず、第三次産業の就業人口だけが増えていった。こうして、日本もまた、第三次産業で経済を保たせるような構造へ変化していったのである

・尚、【第三次】産業は一般に、【第二次】産業に比べて利益率が低い
・と言うのは、【第三次】産業の方が【人件費】が高くつくのである
⇒第二次産業は要するに製造業が主力なので、機械が商品を大量生産してくれる。だから基本的には、機械を操作する人間がいればいい。一方第三次産業は、運輸業、金融業、情報通信産業等々…機械も使うは使うが、とにかく人間が主役となって働いてくれないとどうにもならない。当然、人件費は高くつく

・また、既によく知られている通り、現代日本は人口が減っている
・つまり現代日本は、ただでさえ利益率の低い第三次産業が中心な上、カネを稼ぐ人間の数も減っている
・故に、この【労働力】人口の減少が何らかの形で補えなければ、よくない結果を生む可能性がある
※言うまでもなく、技術革新で補うとかも必要ではあるが、それ以上に人口を増やすようにした方がいい

○情報化社会

・現代社会はよく、【情報化】社会と呼ばれる
・マスコミ、ミニコミの発達により、世界の裏側で起きた事件でも即座に知る事ができる
・あらゆるニュースが、あらゆる情報が、社会に氾濫している
・現代は、そういう社会である
⇒情報化する前の社会を、【工業化】社会と呼んだりする。古代から中世は農耕と牧畜の社会で、産業革命で機械が登場して工業化社会になって、現代ともなると情報化社会…という感じ

・現代の情報化社会では、かつての工業化社会と比べかなりの変化が起きている
・例えば、いわゆる[IT(情報技術)]が進歩した
・これによって、[電子商取引]や[電子マネー]、[電子決済]が大々的に使われるようになった
⇒例えば、Amazonや楽天のようなインターネット通販は電子商取引である。SuicaやPASMO、nanaco、楽天Edy、iD等は電子マネーである。そして、クレジットカードや電子マネー、QRコード決済等、現金を使わずデジタルデータの送受信で支払いを済ませるのが電子決済である

・それだけではない
・情報技術の進化は、【SOHO】と呼ばれる働き方を生んだ
⇒Small Office / Home Officeの略。例えば、イラストレーターが自宅や賃貸住宅を職場として稼ぐというのであれば、これはSOHOである。依頼を受けるのも、営業をするのも、完成した絵を送るのも、金銭授受も、全てインターネットを介して行えるからこそ、こういう働き方ができる。他にもSE、プログラマー、デザイナー等はこのような働き方が可能である

・また、情報通信産業の発達は当然、人工知能(AI)等の発達も促している
・このような技術を使って、様々なものが効率化される事が、令和三年現在、期待されている
・例えば工場を、ほぼ無人で動かせるようになるかもしれない
・車が自動運転になって、免許の要らない時代が来るかもしれない
・このような効率化を、[スマート]化と呼ぶ事もある

●中小企業

○概要と定義

・既に見たように、ある国の経済界が中小企業ばっかり、大企業は皆無…というのはよくない
⇒何処からか大企業が出てきた時、中小企業が皆薙ぎ倒されてしまう。「大型ショッピングモールも商店街もある」という状態で共存してきた街なら大丈夫でも、「商店街しかなかったところに大型ショッピングモールができた」となると商店街が壊滅するのと同じ

・また同様に、ある国の経済界が、少数の超大企業の寡占状態…というのもよくない
⇒独占資本主義でもやったし、市場の失敗でもやった話。そもそもソ連でさえ、「国という名の超大企業による独占状態だった」というので経済が死んだんですよ、という話

・戦後日本は、多くの中小企業を抱えてきた
⇒2016年時点で、全企業の内99.7%が中小企業。日本の企業労働者の内、中小企業で働く人間の数が68.8%

・ただこれに関しては別に日本特有の現象ではなく、大抵の先進国は大量の中小企業を抱えている
・無論、先進国と言っても人口にそれなりの差があるので、企業の絶対数で言うと差があるのだが…
・人口あたりの数や比率に直してみると、大抵の国が多くの中小企業を抱えているのである
⇒当然ながら、人口があればあるほど企業の数は増える。そして、同じOECDに所属する先進国であっても、人口はかなり差がある。例えばアメリカ合衆国は人口三億三千万(一位)、日本国は人口一億二千万(三位)だが、これがオーストラリアになると人口二千五百万人(十三位)、イスラエル国、オーストリア共和国、デンマーク王国あたりになってくると一千万人を切る。だから絶対数で比較するとかなり差があるのだが、人口あたりの数とか比率にしてみると、日本の中小企業だけが極端に多い訳ではない、という話

・さて、ここまで中小企業中小企業と言ってきたが、具体的に中小企業とは何なのか
・日本国の場合、中小企業についての基本的な事柄は全て、【中小企業基本法】に書いてある
・この法律に書いてある事が、日本国に於ける中小企業の法的な定義と言えよう

・中小企業基本法に於ける定義一覧は、以下のようになる

資本金 従業員数
製造業その他 【三億円】以下 【三百人】以下
卸売業 【一億円】以下 百人以下
小売業 【五千万円】以下 【五十人】以下
サービス業 【五千万円】以下 百人以下

※卸売業は、ざっくり言えば、製造業者から小売業者に商品を運ぶ業者。例えばソニーがPS5を作ったとして、普通の人は家電量販店(ヨドバシカメラ等)やゲームショップ(GEO等)で買う。ソニーから家電量販店やゲームショップにPS5を運ぶのが、卸売業である

○二重構造

・高校の公民科の授業で、中小企業となると必ず出てくるのが【二重構造】という言葉である
・これ、本当なら軽率に出さない方がいい単語なのが本当に面倒臭い
・と言うのは…大抵の教科書や参考書には、以下のように書かれている

~大抵の教科書や参考書に書かれている話~
・1957年の経済白書で、大企業と中小企業の間にある格差、【二重構造】が指摘された
・日本の中小企業は近代化が遅れており、大企業に大きな後れを取っている
後れを取る例:【資本装備】率、生産性、賃金等々
※資本装備率:この率が高いと、機械化やAIの活用等が進んでいる…というもの

・二重構造の原因は主に二つある
・一つ目は、大企業と違って銀行から融資を受けづらい(借金をしづらい)[金融の二重構造]
⇒単純に、銀行員から見て「大企業と中小企業、どっちの方が借金返してくれそうか?」という話である
・二つ目は、中小企業の多くが受ける、[景気変動の調整弁]と呼ばれる扱いである
⇒中小企業は、その多くが大企業の【下請】企業、もしくは【系列】企業である。例えば自動車を作る大企業があったとして、「その大企業に車輪を作って売る中小企業」「その大企業にタイヤを作って売る中小企業」みたいな中小企業が大量に存在する。これがいわゆる、下請企業とか系列企業と呼ばれるものである。そしてそういう企業は、不況時に切り捨てられる事が多い

・二重構造の改善策に向け、1963年に[中小企業基本法]と[中小企業近代化促進法]が制定された
~ここまで大抵の教科書や参考書に書かれている話~

・恐らく、この時点で「ん?????」となった人がいるだろう
・「二重構造が指摘されたのが1957年、対策法が制定されたのが1963年」「じゃあ今は?」
・全く当然の疑問である
・実を言うと、この二重構造を研究している人というのは近年、殆どいないらしい

労働経済学を牽引する米国の風潮を反映してであろう,経済の学術誌に掲載される論文の題名に「二重構造」もしくは「二重労働市場」という用語が登場することは,現在ほとんどない。
(中略)
米国の大学で博士号を取得した人も多い日本の経済学界もそんな影響を如実に受けている。二重構造論という言葉が日本の労働研究から消えるのは,もはや時間の問題なのかもしれない。

『日本労働研究雑誌』2011年四月号、東京大学教授玄田有史「二重構造論―再考」

・2011年時点でこの調子なので、最早「公民でこの言葉を教え続けるのはどうなのか」という話である
・大企業と中小企業の格差という観点の論文自体、近年は殆ど見られないようだ
・とは言え、じゃあ大企業と中小企業の格差は解消されたのか? と言うとそうでもないようである
・先の「二重構造論―再考」には、賃金と勤続年数で、中小企業と大企業の格差を調べている
・その結論を要約すれば、「格差が縮小していない訳ではないが、消滅した訳ではない」となる
※実際のところ、現代日本で「二重構造」という言葉を使うなら、「正社員と非正規」とか「いわゆるホワイト企業とブラック企業」みたいなものを問題にすべきではないか、と筆者も思う

○規制緩和

・中小企業は、従来、様々な法律で保護されてきた
※基本的に中小企業より大企業の方が強いので、保護してやらないと独占資本主義へまっしぐら
・が、新自由主義の台頭もあり、規制緩和が進んでいる

・例えば、1973年に制定された[大規模小売店舗法]は、中小企業を保護する法律であった
・この法律の対象は、百貨店や大型スーパーマーケット、ショッピングモールといった大型小売店である
・この法の概要は、主に以下の二点である
1:こういった店舗を出店する場合は、[通産大臣]の許可が要る
2:また、出店から数年間は、[出店調整]をしなければならない
⇒営業時間、休業日数等を地元の商店街と調整する

・既に見たように、この法律は日米貿易摩擦で廃止を求められた法律である
・こうして、2000年、大規模小売店舗法は廃止された
・代わって[大規模小売店舗立地法]が制定されたが、その規制緩和は著しい
・何せ、出店の条件としては「交通渋滞の緩和」と「ゴミ処理の実施」ぐらいしかないのである
※田舎にショッピングモールができる⇒商店街が壊滅する⇒結局採算が合わなかったというのでショッピングモールが撤退する⇒焼 野 原…という、2000年代に入ってからよく見る光景は、この規制緩和によって実現した

・ところで、先に中小企業は下請企業、系列企業が多いと言った
・勿論、そうではない中小企業というのも存在する
・それこそ商店街のお店なんかはその例だし…
・地域の伝統産業をやっているような中小企業もある。いわゆる[地場産業]である
⇒分かりやすいところで言えば東北の南部鉄器やら、愛媛県の今治タオルやら。その地方の伝統的な特産品を作っている産業をこう呼ぶ

・いわゆる[隙間産業][ニッチ産業]と呼ばれる分野で活躍する中小企業も多い
⇒大企業や既存の企業がやらないような、小規模で専門的な分野を扱う企業

・また、いわゆる【ベンチャー】企業も中小企業である
⇒この手の企業に明確な定義はないが、敢えて特徴を挙げるなら「新しい技術を用いて、新しい【サービス】を提供する会社」「成長途上である場合が多く、それ故、投資家や投資機関による資金提供を受けている場合が多い」というところ

・この手の企業を作りやすくしよう、というので【最低資本金】制度がなくなったのである
⇒以前、経済分野第一章「企業とは」でやったアレ。より正確に言えば、最低資本金が一円になった

●農業

○農家の分類

・農家には、分類法が主に二つある
・一つ目は、専業か兼業か、というもの
・二つ目は、主業か副業か、というもの

【専業】農家 世帯員(家族)全員が農業のみに従事している
【兼業】農家 世帯員(家族)に、農業以外に従事している者がいる

※農業のみに従事しているかどうかの定義は、具体的には「一年間に三十日以上、雇用労働に従事した」、もしくは「農業以外の自営業に従事した」。こういう人を【兼業】従事者と呼ぶ

【主業】農家 世帯所得の中で、[農業]によるものが五割以上。また、[六十五]歳未満の世帯員で、一年間に[六十日]以上自営農業に従事している者がいる
【準主業】農家 世帯所得の中で、[農業]によるものが五割未満。また、[六十五]歳未満の世帯員で、一年間に[六十日]以上自営農業に従事している者がいる
【副業的】農家 [六十五]歳未満の世帯員で、一年間に[六十日]以上自営農業に従事している者がいない

○戦後日本農業史概略

・既に見たように、第二次世界大戦後、日本では農地改革が行われた
・この農地改革は成功したが、そのせいで、日本の農業は小規模な農家によるものが中心となった
・逆に言えば現代的な、広い農地を企業が機械で…というような農業はできなくなった
・言ってみれば戦後日本の農業は、中小企業しか存在せず大企業が存在しない、そういう状態なのである
⇒そして中小企業しか存在しない国の産業は、大企業、例えば外国の大企業が乗り込んでくると死ぬ。現代日本の農業は「国に保護されていないと速やかに死ぬ」と以前言ったが、これは、中小企業ばっかりだから関税や輸入制限で守ってあげないと外国の大企業に負ける…という意味でもある

・勿論、戦後日本の農業が中小企業ばっかりでも、その中小企業が元気にやっていればいいのだが…
・既に見たように、高度経済成長期になると、農村から都会へと大量の人口が移動した

~ここから復習~
・無論、今も昔も「農村から都会へ」人は移動するものである
・だが特に高度経済成長期は、物凄い勢いで人が移動した
・高度経済成長期、都会には多数の工場が作られ、都会の企業は多くの労働力を必要とした
・一方、農村は、人がだだ余りの状態であった
⇒洋の東西を問わず、かつての農村では「子供」は「労働力」であった。子供を沢山作って農作業を手伝わせる訳である。しかし、子供が成長してくると、田畑を相続できる長男はともかく、次男以降の処分に困る。次男以降は、何らかの形で「捨て」ねばならない。戦前日本なら軍隊に就職したが、戦後はそういう訳にもいかない。こういう、農村のあぶれた人々が、一気に都会へ雪崩れ込んだのが高度経済成長期である

・一般に、「農村から都会への人口移動」と言うと、農村にとって100%損のように思える
・しかし実際には、そうではなかった
・都会は労働者が手に入る。農村は余った人間を「捨て」られる。WIN-WINだった部分もあるのだ
・とは言えこの大移動は結局、現代の[東京]と[地方]、[都会]と[農村]の対立の遠因となった

・と言うのは、「余った人間」以外も、農村から流出しだしたのである
・それこそ、次男以外の長男も、都会での成功を夢見て移住するようになった
・特に1960年代ともなると、農村に住む成年男性すら、農業をしないような状況となった
⇒平日は都会に行って会社で働き、休日は農村の自宅に戻り、場合によっては農業を手伝う…というような、一種の出稼ぎのような状況

・こうして、農村の(農業な)主な働き手たる[男子]労働者は、都会や工業に取られていった
・俗に言う[三ちゃん]農業が出現したのである
⇒お爺ちゃん、お婆ちゃん、お母ちゃんがやるから「三ちゃん」。1963年の流行語である
・農村にせよ農業にせよ、高度経済成長期に衰退を始めたのだった
~ここまで復習~

・日本の農業は農家によるものが基本であり、農家は、中小企業の中でも特に小さい存在である
・何せ家族による経営が基本で、法人を取得していない個人事業主も多い
・企業としての規模で言えば、零細企業とか呼ばれるような存在なのだ
・その零細企業の群れたる日本の農家から、大黒柱となる成人男性労働者が次々と消えていった
・これは、戦後日本の農業を衰退させるに充分なものであった

・そんな日本の農業は、それでも政府によって強く保護されてきた
・特に政府が強く保護したのは、農家による【コメ】の生産である
・その保護に使われたのが政治分野でも触れた【食糧管理法】であった
⇒生存権がプログラム規定説になってしまう原因となったアレ。政治分野第二章の社会権のところ参照

・食糧管理法は、元々、第二次世界大戦中の1942年に制定された
・日本人の食糧、特に主食たる米を全日本人へ均等に行き渡らせる事を目的とした法律であった
⇒米をはじめとする農作物は農村で作られる訳で、「農村には食糧あるけど都会にはない」とかそういう事態になりかねないし、それは困る。戦争中だから特に困る

・そんな戦争中に制定された法律と、それに基づいた制度が1995年まで続いた
・それだけ長く続いた以上、法律と制度の内容はかなり変わっている
・例えば、戦時中~終戦直後は米以外も食糧管理制度の対象となっていた
・ただ、基本的には「米を政府が生産者米価で買い、国民へ消費者米価で売る」ものだったと言える
⇒要するに、「農家が困窮しない値段、農業とそれ以外の業種で格差が生まれないような値段で買う」「国民にとって適正な値段で売る」という制度だったと考えていい

・この食糧管理制度は、1970年代ぐらいから問題を抱えるようになってくる
・まず、1960年代後半に日本は米の自給率100%を達成、以後も生産量を伸ばし続けた
⇒「1960年代後半? 高度経済成長期だろ? 農村の人口が減って都会の人口が増えたこの時期に米の生産量が増えた?」と思うかもしれないが、思い出してほしい。1940年代から1960年代にかけて、世界中で農作物の生産量を飛躍的に増やした緑の革命。あれが日本にも浸透したのである。また、日本人がパンや麺類をよく食べるようになり、米の需要が下がったのもある(それでも尚、日本人は世界でも異常なぐらい米を食べる民族だが)

・米は自給率100%を越え、それでも増産された。完全に【生産過剰】となったのである
・では、国内で食べきれない米は何処に行ったのか? 倉庫である
⇒日本政府は食糧管理制度の中、国内の米を原則すべて買い上げ、売れ残った米は古米として貯蔵したのだった
※輸出は? と言うと、そもそも日本人が食べているような米(短粒種とかジャポニカ米とか呼ばれる類のもの)の需要が国際的に高まってきたのは、国際的に電子炊飯器が普及した2000年代に入ってからの話である。それまではそもそも需要があんまりない。それもあって、日本人は米の輸出には熱心ではなかった

・倉庫も無料ではない。当然、古米が増えれば管理費は増える
・しかも高度経済成長期によって、都会の人々の賃金は飛躍的に増えた
・そして食糧管理制度に於ける生産者米価は「都会と農村で賃金格差が発生しない」を考慮して決まった
・つまり、政府が買い取る米の値段は上がり続けた
・一方で、「誰でも食糧が購入できる」というのを目的にした制度なので、米を売る値段は上がらない
・結果、米を高く買って安く売る、いわゆる[逆ザヤ]が発生し、政府の赤字は増えていった

・勿論、政府も全く無策だった訳ではない
・問題が本格化する前の1961年には[農業基本法]が制定され、これに基づく[基本法農政]が行われた
・この農政には、農家が米を離れ、牧畜や果樹に転換する事の推奨も入っていた
⇒いわゆる「選択的拡大」である

・また、1970年代からはいわゆる【減反(げんたん)】政策も実施された
⇒新規開田の禁止や、転作(米を作っていた土地で別の農作物を作る)の実質的な強制によって、米の生産量を減らそうとした政策

・だがこれらの対策は結局、焼け石に水であった
・1980年前後には、食糧管理制度に由来する赤字が一兆円を超えた
・しかもその癖、1993年には平成の米騒動と呼ばれる事件まで起きた
⇒この年の米は特大の不作であり、大凶作だった。しかも減反政策をやりすぎたのもあり、政府が備蓄していた古米を全て放出しても足りないという事態が発生、米の緊急輸入が行われた
・最早、食糧管理制度という制度そのものが限界に来ていた
⇒こういう計画経済的なものは、国全体が貧乏な時はうまく回るのだが、国全体が豊かになってくるとうまく回らなくなる。ソ連がまさにそうだったし、日本でもそうなったという話

・食糧管理制度に、最終的な止めを刺したのは【GATT】であった
・そう、【GATT】の[ウルグアイ・ラウンド]にて、米の【例外なき関税化】が求められたのである
⇒戦後日本は、原則、米の輸入数量ゼロという輸入数量制限を行ってきた。この【非関税障壁】を、【関税障壁】に置き換える事が求められたのである

~ここから復習~
・結局日本国は、GATTに参加して世界的な自由貿易体制に参加し、輸出で稼いでいた訳である
・例外なき関税化に屈する他はなく、例外なき関税化は【米】にも適用される事となる
⇒ウルグアイ・ラウンドが終わるのは1994年だが、1993年、日本国は米の輸入自由化に同意。1995年から極少数を輸入する準備期間(この少数の輸入量を[最低輸入量(ミニマム・アクセス)]と呼ぶ)を経て、1999年から米の輸入は自由化された

・尚、ウルグアイ・ラウンドと日本、というのでは米の輸入自由化ばかりが取り上げられるが…
・実を言えば、【牛肉】や蜜柑(果汁含む)も自由化されている
~ここまで復習~

・食糧管理制度そのものの限界、そしてGATTによる外圧
・最早、「日本で作った米を、日本人全員に行き渡らせる」を目的とした制度の維持は不可能であった
・こうして、食糧管理法は1995年、廃止。新たに【食糧需給価格安定(食糧)】法が制定された
・更に1999年、新農業基本法とも呼ばれる[食糧・農業・農村基本]法が制定される
・そして2004年、食糧需給価格安定法が大幅に改正された(通称新食糧法)
・新農業基本法と新食糧法、この二つの成立によって、令和三年現在の日本農業の基本形が完成した
⇒米をはじめとする農作物を、誰でも自由に生産し、また販売できるようになった。強制的な減反政策もなくなったし、農業政策の基本も「国民生活の安定向上及び国民経済の健全な発展を図る」となった
※旧農業基本法による農業政策の基本は、農家と非農家の格差是正であった。だからこそ、旧農業基本法体制下の食糧管理制度では、政府が米を高く買っていた、という側面がある

○食糧自給率

・戦後日本の食糧自給率は、当初、かなり高かった
・それこそ1960年代には80%もあった
・しかしその1960年代に[三ちゃん]農業が誕生。日本の農業は本格的に衰退を始める
・しかも日本政府がやっていたのはむしろ、減反政策とかそっちだった訳で…
・令和三年現在、日本の食糧自給率は【40%】を割り込む水準で推移している
⇒ここで示した数値は、カロリーベース。生産額ベースだと65%程度にはなる

・ところで、以前ペティ=クラークの法則というのをやった
・どんな国でも、第一次産業⇒第二次産業⇒第三次産業、と主要産業が変遷するというアレである
・だから日本の農業の衰退は仕方ないのか?
・他の主要先進国でも、農業の衰退は止まらないのか?

・…と言うと、別にそういう訳ではない

・それこそ、世界一位の経済大国【アメリカ合衆国】
・この国は世界最大級の農業を持ち、穀物メジャーと呼ばれる巨大農業企業群を擁している
・2000年代以降、この国の食糧自給率は基本、カロリーベースで120%を超える水準で推移している
・また、欧州有数の先進国にして最大の農業国が【フランス共和国】である
・この国のカロリーベース食糧自給率も、2000年代以降、130%前後で推移している
・先進国では農業国として知られるカナダやオーストラリアに至っては、200%を超える年も多い
・かつて産業革命以降、農業が壊滅したイギリスも回復傾向にあり、2000年代以降は70%前後である

・ところで、その国が生きていくのに必要なものを完全に、外国に依存してしまうのは危険である
・日本を含む先進各国が石油危機で、自国の存続を中東の石油にのみ依存する危険性を学んだ
・食糧もまた、国の存続と国民の生存に必須のものである
・故に少なくとも主食については、自給率を可能な限り上げ、国内完全自給体制を目指すべきである…
・このような立場を、[食糧安全保障]論と呼ぶ。一定の理がある理論である

・この理論は、【米】の輸入自由化や[TPP]参加に反対する根拠ともなった
⇒現代でも、米は日本人の主食である。またTPPは要するに多国間のFTA/EPAであるから、参加国間では輸入障壁が原則、撤廃される訳で…ただでさえ死にかけの日本の農業が死ぬぞ、自給率も下がるぞ、という話

・実際の所、カロリーベースでの食糧自給率はかなり低い
・一応、品目別に見ると、高い品目も全くない訳ではないのだが…

・例えば米と鶏卵は97%、茸類も89%に近い
・野菜も80%あり、芋類も70%を超える
・肉類や魚介類となると50%台へ突入し、厳しくなってくる
⇒肉類については格差があり、鶏肉が60%台中盤の一方、牛肉は30%台中盤とかなり低い。また、飼料の自給率が25%と極めて低く、「国産の餌を食べて育てた国産肉類」となるとどれもこれも1%台。この考え方を適用すると鶏卵すら12%となる
・露骨にヤバいのが麦類、豆類、油脂類で、どれも10%台以下である
※いずれも令和二年度の数字

・こういう惨状は当然、日本農業の衰退によって起こったものである
・一般に、農業は地方で行われ、都会では行われない
・そして「地方から都会へ」という人口移動はますます加速している
・いわゆる東京一極集中が進み、若者は地方を出て都会の大学に通い、都会で就職する

・当然ながら、こんな状況では農業の継承者が現れる筈もない
・いわゆる耕作放棄地は右肩上がりの状態であり、1985年から2015年までで見ても、六倍に増えている
・当たり前だが、就業人口の高齢化も進んでいる
・月並みな表現をすれば、日本の農業は「業界の再編が必要な状況にある」というところだろうか

●地方と都市の格差

○都市化による問題

・高度経済成長期以降、「農村から都会へ」「地方から都市へ」の大規模な人口移動が起きた
・この人口移動は、農村、地方の【過疎】、都会、都市の【過密】を生んだ
・また、ただの地方都市ではなく、全国的・国際的な[大都市圏(メトロポリス)]をも生んだ
⇒更に言えば、大都市圏と大都市圏が隣接して発達し、また互いが互いに機能的に接続する、という状況をも生んだ。分かりやすいところで言えば、横浜という大都市圏の隣には川崎という大都市圏が、更にその隣には東京南部という大都市圏が存在し、それぞれが密接に絡み合っている。例えば川崎は工業地帯である一方、横浜と南東京の中継地点、またベッドタウンとしても機能している。このような、大都市圏が接合したものを[巨帯都市(メガロポリス)]と呼ぶ

・このような、農村、地方の人口を奪う形での都会、都市の発達には、勿論様々な問題がある

・例えば、人口を奪われた地方では、自治体の消滅の危機すら起きる
・一方、人口が集中した都会では、【インフラ】が不足する、というような事態が起こり得る
⇒実例として、1964年の東京オリンピック直前の時期、東京を含む首都圏では水不足が深刻化した。その原因としては勿論、干天という異常気象もあったが…それと同等かそれ以上に深刻な問題だったのが、人口急増によるインフラ(この場合は水道)不足でもあった。1964年には、十時から十六時と二十二時から翌朝五時の間は、蛇口を捻っても水が出ない、という強力な水利用制限がかかった

・また、都市はしばしば無計画に発展する。戦後の日本の都市の多くもそうであった
⇒戦後の日本は基本的に資本主義経済なので、当然と言えば当然。資本主義経済とは本来、無計画なものである
・その為、発展する場所としない場所が虫食い状に偏在する、[スプロール(化)]現象が起こる

・もっと言えば、都市が巨大化すると、都市の中心部の地価は[高騰]する
・そのような場所に住めるのは、ごく一握りの超富裕層のみである
・結果、多くの人は都市周辺部に住むようになり、長い通勤時間や満員電車に耐えねばならなくなる
⇒いわゆる[ドーナツ化]現象。令和三年現在、特に首都圏で深刻な話である

・尚、[地域社会]の崩壊というのも、しばしば聞かれる都市化の問題である
・即ち、昔の人間は家族による【血縁】、そして家族と家族の交流による【地縁】を大事にしてきた
・そのような地域の繋がりというものが、都市には存在しない
・隣近所であってもあくまで他人であり、互いに関わろうとしない…みたいな話である
⇒実際のところ、地域社会は必要なものである。ただ一方で、地方では奇形的に異常発達した地域社会による監視社会になってしまっている地域も多い。鍵を閉めて外出すれば異常者扱い(隣近所の人間を泥棒扱いしている)、どこに出かけても次の日には隣近所の人に「昨日は~~に出かけてたんでしょ」と声をかけられるプライバシーのなさ、地域社会の催事への参加の強制、逆に爪弾き…地方から都会へ出る人というのは、このような異常発達した監視社会から逃れたいというところもあるので、ただ「地域社会の復活」だけを言ってもどうにもならない

○地方創生

・率直に言って、現代日本の地方は死にかけである
・地方からは人口が流出し続けており、都会は「本来なら人口減る出生率なのに、人口増」である
・言ってみれば、都会は地方から搾取して成長している訳である
・これは逆に言えば、地方が死ねば都会も死ぬという話でもある
・故に地方の復興は国家の重大事であり、高度経済成長期からして既に策が講じられている

・その代表例が、1962年から始まった[全国総合開発計画]である
⇒所得倍増計画の[池田勇人]が内閣総理大臣だった時代に始まった。尚、全国総合開発計画は第五次まであるが、単に[全総]と略して言った場合、池田勇人が始めた第一次を指す場合と、第五次まである全国総合開発計画全部を指す場合、両方がある。特に第一次を指したい場合は[一全総]もしくは[旧全総]と略す場合が多い
※ちなみに、第二次の全国総合開発計画は、正式には「新全国総合開発計画」である。だから一全総のことを旧全総とも呼ぶのである

・五次に渡った全国総合開発計画はそれぞれに特色がある
⇒その時期の政府が「どうやって地方活性化をやりたいと考えていたか」というのが、それぞれの全総から分かる、とも言える
・例えば1987年策定の第四次全国総合開発計画では、[多極分散]型国土建設を掲げた
・要はそれだけ、東京一極集中が問題になっていた時期だと分かる訳である
・この時期は[首都機能移転]が唱えられ、1992年の国会移転法の成立に繋がったのである
※尚、そんな法律を作ったはいいが、国会の東京外への移転は実現していない。まぁ法律作ったのが大絶賛バブル崩壊中の1992年で、以降三十年に渡って不況と緊縮財政の時代が続くので…

・尚、全国総合開発計画は2009年、国土形成計画と名前を変えた
・令和三年現在の最新版は2016年の第二次国土形成計画である

・ところで、国土形成計画は基本的に、国土交通省の所管である
・とは言え、地方の活性化、地方創生というのは一省庁だけでやればそれで足りるものか?
・そういうところから、第二次安倍政権中に誕生したのが[地方創生担当大臣]である
⇒政治分野第三章でやった、いわゆる特命担当大臣の一つ。内閣府に所属し、複数の省庁にまたがって仕事をし、主に「政権が変わっても継続してやらねばならない仕事」を扱う…というアレ

・ただまぁ現在のところ、こういった地方創生の取り組みが上手くいっているかと言われると疑問である
・1960年代からずっとやっているのに、地方はどんどん衰退しているし、東京一極集中も止まらない
・それに、政治分野第三章でやった地方分権改革なんかは、むしろ地方の切り捨てであった

・勿論、中央政府や都会だけが悪いという話ではない
・地方衰退の原因は地方自身には無い、とは言い切れないのである
・それこそ、奇形的に異常発達した、地域社会という名の監視社会はその一つとして挙げられる
・また、地方自治の存在意義が問われるような事件もちょくちょく起こっている
⇒例えば首里城は、国から沖縄県に管理が移って一年も経たない内に、杜撰な管理で火災を起こしほぼ焼失した。2020年からのコロナパンデミックのワクチン接種の進行状況も、自治体によって格差がある

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