近世・近代・現代史概略

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※令和五年八月に本ページの内容を全面改訂しました。授業動画は改訂前のものです。改訂後の資料を使った授業動画は現在作成中です

●前置きと資料

・ここから先の話は、「どうして我々は現代日本みたいな国家に住んでいるのか」という話になる
・その為に「現代的な国家はどういう経緯で登場してきたのか」という話をしていく事になる
・つまり、歴史の話をする事になる
⇒現代(令和五年現在)の文系選択の高校生は、「歴史が嫌いだから政経に逃げてきた」という人が多い。しかし実際には、公民科の授業は歴史の話が多い。政経も公共も倫理もそう
・しかも以下のような形で、色んな時代を何度も行ったり来たりする事になる

1:中世~現代が、どんな時代かを見る
2:絶対主義の時代~現代を、国家の正当性という側面から見る
3:中世~現代を、法の発展という側面から見る
4:中世~現代を、人権という側面から見る

・…こんな感じなので、「今どの時代の話をしているのか?」というのが頭から飛ぶと大変な事になる
・以下に時代区分の資料を載せるので、今後、勉強をしていく際の参考にしてほしい

時代区分

※「×年から×年が△△時代」というのは人によって変わる。上記はあくまで一例である。私の授業では、この時代区分で通す予定
例:「革命の時代」という概念を最初に言い出した歴史家は、革命の時代を1789年開始としている

※尚、本来公民の授業(つまり公共の授業とか政経の授業とか)では、「中世~現代が、どんな時代か」はやりません。「世界史でやったでしょ」という感じで、ある程度どんな時代か分かってる事前提で授業が行われます。が、私の授業では先に、「中世~現代が、どんな時代か」という話をします
※歴史の概略が終わるまでは、細かい知識の暗記よりも「“どんな事件がいつ起きたか”“この時代はどんな時代か”みたいなものを、をなんとなーくでいいから把握する」という事を優先してください

・また、以下にワークシートを載せる。このワークシートを埋めながら授業を受けるとよいだろう
※(印刷したい人等向け)pdfのダウンロードはこちら

近世・近代・現代史概略~人権の拡大 ワークシート

●中世と絶対主義

・これから、欧州の中世~現代が、どんな時代かを見ていく事になる
・なるのだが、中世という時代に対して、一般に重大な誤解がある
⇒欧州の中世は長いので一般化するのは難しいが、概して、「王がいてお城に住んでて、騎士がいて、騎士団なんかもあって、農民は貴族に年貢を納めてて、村には教会があって…」みたいな時代と想像すればよい

・この時代について、一般の人は大きな誤解をしている
・まずは↓の、二つ図を見てほしい

中世と絶対主義

・「中世って、まぁ大体王国ってイメージだよね」「じゃあ王国の権力構造ってどうなってると思う?」
・↑こう聞くと、大抵の人は甲の図を思い浮かべる
・即ち、王という一番偉い人がいて、その下に沢山家臣がいて、王が家臣に命令を下す…という形である

・しかし、現実の中世はむしろ、乙図のような状態であった
・中世の王とはそもそも「貴族筆頭」というだけの存在であり、絶対的な権力は無かった

・無論王であるから、家臣へ命令を下す事はできる
・しかし、中世欧州に於ける王と家臣との関係は、契約次第だった
・例えば、以下のような契約である

1:王Aは騎士Bに対し、土地を与える
2:騎士Bは王Aの命令に従い、従軍する
3:但し、騎士Bが王Aの命令により従軍するのは、一年につき六十日までとする
⇒つまり、王Aが騎士Bを戦争に連れて行っても、戦争が六十日以上かかった場合、騎士Bは勝手に帰ってしまう。契約でそうなっているので、王Aはどうにもできない

・中世欧州に於いては、このような関係が普通であった
・家臣たる貴族達は、王の命令に対して、様々な形で「嫌です」と言える権利を持っていたのである

・当然、各地の王からすれば、部下の「嫌です」と言う権利を取り上げたい
・故にこそ、中世を通して、この「“嫌です”と言う権利」は少しずつ取り上げられていった

・国の隅々までが、王の命令によって動く体制
・王が「戦争やるぞ」と言えば、全国がその戦争に参加する国
・王が「新しい法律作るぞ」と言えば、全国にその法律が適用される国
・このような体制を【絶対王政】と呼び、これを実現しよう、という思想を【絶対主義】と呼ぶ

・絶対主義的な国家は、中世を通して少しずつ作られていく
※中世欧州に絶対主義という言葉はなくとも、多くの王が目指したところは要するに、絶対王政である
・そして絶対主義の時代前半に至って、ついに、それらしい国が欧州に誕生するのである
・絶対主義の時代後半にも入ると、欧州では、「先進国は絶対主義だよね」という時代になる
・「絶対王政できてない国は遅れてる」という時代になるのである

・この時代背景を抑えた上で、続きを学習してほしい

●中近世英国史概略

○前説

・現代的な民主主義国家の源泉として、イングランド王国(イギリス)が挙げられる場合が多い
※この国は、イングランド王国⇒グレートブリテン王国⇒グレートブリテン及びアイルランド連合王国⇒グレートブリテンおよび北アイルランド連合国…と名前が変わる。筆者は、三番目の名前になってからは「イギリス」と呼んでいる。流石に長すぎるので

・何故、イギリスなのか?
・実はこの国、民主主義国家建設の時期が早く、尚且つ現代まで生き残っているのである
・現代的な民主主義国家は、革命の時代から資本の時代にかけて、欧州に誕生していくが…
・イギリスだけは、絶対主義の時代からして既に、そういう国家を作っていた
⇒どの時代がどのあたりの話なのか、先に挙げた資料で必ず確認しておくように

・しかも政治体制を大きくは変えず、第二次世界大戦にも勝ち抜いた
・故に、「現代的な国家がどうやってできてきたか?」という話をする時、やたらと出てくる
⇒現代の国際社会は、「正義の連合国が、悪のドイツを倒した」という神話の上に成り立つ社会である。もうちょっと言えば、「正義の民主主義国家が、悪の独裁者率いるドイツを倒した」という神話の上に成り立っている。となれば、「正義の民主主義国家」の中でも建設が最も早い、イギリスがやたら出てくるのは当然と言えよう

・そういう訳で、この国に注目して、中世からの歴史を見てみよう

〇中世/ジョン欠地王とマグナ・カルタ(大憲章)

・中世盛期。十字軍の時代。この時代、イングランド王国は国難を迎える。ジョン欠地王の即位である
・彼は、現代イギリスに於いても無能の見本とされるぐらいのナイスガイである
・その後二度とイングランド国王の名に「ジョン」が使われる事はなかった、というぐらいの男である
・どうしてそこまで言われてしまうのかは、地図を見れば一発で分かる

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上が、ジョン欠地王即位時の地図。下が、欠地王没時の地図。尚、フランス王国北西のイングランド本国がある島がブリテン島、その西にある島がアイルランド島である。
CrusaderKingsII(日本語化MOD使用)より

・イングランド王がここまで激烈な勢いで領土を失ったのは、後にも先にもない
・しかもこれ、家臣が言う事も聞かずに戦争を繰り返した結果である
・もっと言えば、戦費調達の為家臣や領民に重税を課しながら戦争を繰り返して、結果これである

・当然ながらジョン欠地王は、家臣達、つまり貴族や都市の代表から猛烈な突き上げを食らった
・「お前もう勝手に動くな」「まず俺らに話を通せ」と
⇒一応現代では、欠地王はそこまで無能ではなかった、という擁護説も出てきている。ただ何せ、結果がちょっとね…

・その結果が、【マグナ・カルタ(大憲章)】である
・これは今で言う憲法みたいなものであった。例えば、以下のようなものである
・「王であってもやってはいけない事はある」「王と雖も議会の言う事を無視してはならない」

・当時の裁判官ヘンリー・ド・【ブラクトン】の言葉は、マグナ・カルタの精神をよく表している
・即ち、「国王と雖も神と法の下にある」
・王であっても、議会が作る法よりは下。この考え方は、現代のイギリスにも通じるものである

・ジョン欠地王は、度重なる失政と敗戦の結果、このマグナ・カルタを認めざるを得なくなった
・これは、イングランド王国の「王の権利を法で制限する」という伝統の代表となった

・勿論、先に見たように、欧州各国は中世を通して、王の権力を強化していく
・絶対主義の時代ともなれば、「絶対王政できてない国は遅れてるな」というのが欧州の風潮である
・イングランドでも、後の王達が欠地王の失政を挽回し、王の権力を拡張していった
・そして王の権力の拡張に伴い、マグナ・カルタは忘れられていった

・それでもイングランド王国はやはり、欧州の中では権力が弱い方である
・これはマグナ・カルタに代表される、「王の権利を法で制限する」伝統と無関係ではなかった

・特に、議会の権力が強いのは、イングランド王国の特徴と言ってもいいだろう
・イングランド王の権力は常に、議会によって牽制され続けた
⇒中世も終盤となる1330年頃になると、二院制の議会も整備された。現代でも、イギリス議会は上院(貴族院)と下院(庶民院)に別れているが、その基本は中世終盤には整備されていたのである

近世・近代・現代史概略~人権の拡大 ワークシート 現時点での模範解答

〇近世前半/エリザベス処女王

・中世の次の時代、近世前半で一人、重要なイングランド王を挙げよと言われたならどうなるか?
・多くの場合、“処女王”エリザベス一世の名前が挙がるだろう
⇒西暦1533年生まれ、1603年没。イングランド王としての在位は1558~1603。日本で言えば、豊臣秀吉とほぼ同世代(秀吉は1537年生まれ1598年没)。ちなみに関ヶ原の戦いが1600年である

・彼女の治世の特徴は、大きく分けて二つある
1:極めて議会操縦が上手く、傍からは絶対王政が実現したようにすら見える
2:欧州の片田舎でしかなかったイングランド王国が、世界最強の大帝国になる最初の一歩となった

・まず1。彼女の議会操縦の上手さは本物である
・彼女の時代は、高校世界史の分野だと雑に「イングランド絶対王政の絶頂期」とされる事すらある
⇒実際には、議会操縦が上手く、「傍からは絶対王政が実現したようにすら見える」だけである。イングランド王の権力そのものが強化された訳ではない。とは言え、その議会操縦の上手さは特徴の一つと言える

・続いて2。この時期まで、イングランド王国は、欧州の片田舎だった
・そもそも、中世(の特に初期)の欧州は世界的に見れば田舎だったという話はあるが…
・イングランド王国は、そんな欧州の中でも特に田舎であった

・しかし、日本で言えば戦国の乱世が終わる頃。エリザベス処女王が、画期となった
・この時期、首都ロンドンではウィリアム・シェイクスピアが活躍し、多くの古典的名作が生まれる
・大海賊フランシス・ドレイクも参加した王立海軍が、スペイン王国の無敵艦隊を沈める
・そして、アメリカ大陸への入植が始まる
⇒(特に欧州各国が、欧州の外にある)外国の領土を征服し、自らのものとしたものを植民地と呼ぶ。現地の人間を奴隷にしたり、現地の資源を掘って本国へ持ち去ったりするのみならず、本国で余った人間を移民(入植)させる土地としても機能した。アメリカ合衆国も、元はと言えばイギリスの植民地である

・彼女の治世は、欧州の田舎の島国が、世界を支配する大帝国へと雄飛する最初の一歩であった

近世・近代・現代史概略~人権の拡大 ワークシート 現時点での模範解答

〇清教徒革命とクロムウェル護国卿の独裁

・処女王エリザベス一世の後の時代、イングランド王は再び苦労する事になる
・確かに、エリザベス処女王の治世は、イングランド王国が大英帝国へと雄飛する契機となったが…
・イングランド王国が根本的に抱えていた問題を、そのまま次代へ持ち越したのも彼女だった

・例えば、彼女はイングランド王の権力強化という点では、特に見るべき成果を残していない
・中世に比べればマシとは言え、イングランドは王の権力が弱く、議会の権力が強い
・エリザベス処女王個人は、議会操縦が上手かったが故に、さして困らなかったが…
・全てのイングランド王が、議会操縦が上手いとは限らない
・実際、処女王の後に続いた王は、議会の強さと王権の弱さに苦労する事になる

・他にも、彼女はイングランド王国の財政難を解決できなかった
・元はと言えばエリザベス処女王の父親の御乱脈が悪いのだが、この問題は次代に持ち越しとなった

・王権の弱さと、財政難。この二つの問題は、処女王の二代後の時代になって、大爆発する事になる

・即ち、処女王の二代後の王、“殉教王”チャールズ一世
・近世前半の末期、1625年に即位した彼は、暗君の教科書とでも言うべき存在であった

・よく分かる! チャールズ殉教王の無能ムーブ
1:王太子時代、国王の命令を無視してスペイン王国へ旅行、現地で騙される
2:欧州全域を巻き込んだ大戦争、三十年戦争に軍事介入して連戦連敗する
3:財政破綻寸前なのに圧政やる⇒反乱発生⇒反乱鎮圧の軍を動かすカネありません⇒案の定負ける

・駄目みたいですね…
・こんな調子なので、議会から【権利(の)請願】というものが出た事もあった
・これは、チャールズ殉教王に対し、「マグナ・カルタの精神を思い出せ」と言ったものである
⇒この請願を起草したのが当時の法学者エドワード・【コーク(クック)】であり、ブラクトンの「国王と雖も神と法の下にある」を引用したのでも有名。イングランドではやはり、こんな事を言えるぐらい議会の権力が強く、王の権力が弱かった。チャールズ殉教王はこの請願を無視している

・こんな事を続けていれば、いつか破綻するのは分かり切っていた
・1642年。この年からついに、イングランド王国は内戦へと突入する
・即ち、イングランド国内が国王軍と議会軍に分かれ、内戦となったのである

・絶対主義の時代に入った直後、1651年に議会軍が勝利。イングラン王国はイングランド共和国となる
・この一連の事件を、【清教徒革命(ピューリタン革命)】と呼ぶ
・しかしこの勝利の後に待っていたのは、独裁と恐怖政治であった
・即ち、議会軍の中心人物だったオリヴァー・クロムウェルが護国卿を名乗り、独裁者になったのである
・彼は殉教王を処刑し、議会を骨抜きにし、各地に軍を派遣して恐怖政治を布いたのであった

※本稿の筆者は、三十年戦争が終わる1648年を近世前半から絶対主義の時代へ移る年としているが、清教徒革命は1642年から1651年。まさに、時代の変わり目に起きた騒乱であった

近世・近代・現代史概略~人権の拡大 ワークシート 現時点での模範解答

〇絶対主義の時代/王政復古と名誉革命

・当然ながら、独裁者クロムウェルの死後すぐ、イングランド共和国は瓦解する
・殉教王チャールズ一世の子はイングランドに帰還、議会に迎えられて国王に即位
・ここに、イングランド王国が復活する(いわゆる王政復古)

・この時イングランド王となった男は、なかなかに有能だったと言ってよい
・その治世の末期には議会工作を成功させ、議会の多数が王を支持する状態を作り上げた
・…のだが、その次。ジェームズ二世という男だが、彼が無能だった
・チャールズ殉教王に並ぶ次元で、本当に無能だった。議会と対立し、失政を重ねた

・1688年、イングランド議会は王の追放、即ちジェームズ二世の追放を決議する
・ただ、今回は議会も考えた。また反乱起こして、それで新型のクロムウェルが出てきても困る
・そこで、他国から自分達に都合のいい王様を連れてこよう、と考えたのである
・白羽の矢が立ったのは、ドーバー海峡の向こうの国、ネーデルラント(オランダ)連邦共和国だった

1688年の西欧。イングランド王国の東、フランス王国の北東にある「ネーデルラント」が、ネーデルラント連邦共和国、いわゆるオランダ連邦共和国である。
1688年の西欧。イングランド王国の東、フランス王国の北東にある「ネーデルラント」が、ネーデルラント連邦共和国、いわゆるオランダ連邦共和国である。
Europa Universalis IV(Extended timeline及び日本語化MOD使用)より

・ネーデルラント連邦共和国は「共和国」を名乗るだけあって、王がいない
・しかし、事実上の王はいた。ネーデルラント総督を名乗る、ウィレム三世である
・彼はイングランド王家の血を継いでおり、また、殉教王時代に出た権利請願を認めると言っていた
・イングランド議会にとってみれば、ここまで都合のいい人材は、なかなかいない


・イングランド議会に招聘されたウィレム三世は、軍を率いてブリテン島へ上陸
・当時のイングランド国王ジェームズ二世は軍を率いて対抗しようとするのだが…
・失政の連発により、あまりに人気がなさすぎて軍が動かず、戦う事すらできず亡命
・結果、ネーデルラント総督ウィレム三世は、イングランド王ウィリアム三世にもなったのである

・イギリス人は現代でも、「無血革命だ」「名誉な話だ」として、この事件を【名誉革命】と呼んでいる
※実際にはこの後、ジェームズ二世が軍を率いて逆襲を仕掛けてくる、いわゆるウィリアマイト戦争が起こっている。幕末日本で言えば、大政奉還が名誉革命、戊辰戦争がウィリアマイト戦争である。つまりイギリス人は、明治維新を「無血革命だ」「名誉な話だ」と自慢しているのと同じ、という話になるのだが…この面の皮の千枚張りを、日本人も多少は見習うべきかもしれない

・ともあれ。名誉革命の翌年には、権利請願を元に【権利章典】が定められた
・権利章典には、議会が立法権、徴税権、軍事権、王の任免権を保持する事が定められていた
・ここに、現代まで続くイギリスの立憲君主制の基礎が確立したのである
⇒現代イギリスに於いても、マグナ・カルタと権利章典はイギリス憲法の根幹とされている

・こうしてイングランド王国は、絶対主義の時代に早くも民主主義国家の基本を形成した
・また、長い混乱の時代を脱したこの国はいよいよ、世界を支配する世界帝国へと本格的に成長し始める
⇒エリザベス処女王の時代前後には、世界帝国へと成長する最初の一歩は踏み出していたが、清教徒革命や名誉革命に伴う混乱で停滞。名誉革命が終わってようやく、本格的に成長し始める…というイメージで捉えるとよい。帝国の時代には、世界の約四分の一がイギリスの支配下にあった

・一方、(清教徒革命と)名誉革命は、他の欧州国家に民主主義を広げなかった
・民主主義がブリテン島の外へと広がるのは、革命の時代を待たねばならない
⇒革命の時代に入ってすぐの1775年から始まるアメリカ独立戦争、そして1789年のフランス革命から、欧州各国に民主主義が広がっていく事になる

近世・近代・現代史概略~人権の拡大 ワークシート 現時点での模範解答

●絶対主義の時代末期~革命の時代概略

・名誉革命によって、現代的な民主主義国家の原形とされる体制が成立した
・しかしこれは、あくまでイングランド王国一国でのみ起きた現象であった
・欧州の他の国家では、むしろ、絶対王政こそが先進国の証明であった
・ブリテン島の外に民主主義が広がるのは、革命の時代を待たねばならない

・革命の時代に至って民主主義は爆発的に広がるが、その直接的な原因は、絶対主義の時代末期にある
・即ち、1754年から1763年にかけて起きた七年戦争が、契機となった
・この戦争は、欧州全域、更には欧州各国の植民地を巻き込んだ大戦争である
・プロイセン王国+イギリスvs残りの欧州列強全部、みたいな戦争であった

七年戦争の図。青がプロイセン王国・イギリス側、緑が残りの欧州列強全部側。
七年戦争の図。青がプロイセン王国・イギリス側、緑が残りの欧州列強全部側。
Gabagool, CC BY 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by/3.0, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:SevenYearsWar.png

・見るからに、プロイセン王国・イギリス側が劣勢の戦争である
・事実この戦争は、人口比が400万:8000万だったとか、1:30だったとか言われている
・が、プロイセンの“大王”フリードリヒ二世の奮戦もあり、プロイセン・イギリス側が勝利した

・当然、これだけの劣勢を挽回するのに、プロイセン王国もイギリスも相当の無茶をしている
・イギリスの場合は、北アメリカの植民地に膨大な額の税金を課して戦費を調達していた

七年戦争終結直後の西欧~北米大陸東海岸。欧州大陸側、フランスの北にある赤い島国がイギリス。アメリカ大陸側、東海岸沿岸の赤(「13植民地」及び「ニューファンドランド」表記のところ)がイギリスのアメリカ植民地である。
七年戦争終結直後の西欧~北米大陸東海岸。欧州大陸側、フランスの北にある赤い島国がイギリス。アメリカ大陸側、東海岸沿岸の赤(「13植民地」及び「ニューファンドランド」表記のところ)がイギリスのアメリカ植民地である。
Europa Universalis IV(Extended timeline及び日本語化MOD使用)より

・この重税に、イギリスのアメリカ植民地は反発した
・それだけならいいのだが、イギリス本国政府は、対応を誤った
・即ち、懲罰的な措置で対抗したのである
・本国と植民地の対立は頂点に達し、ついに戦争となった

・こうして、革命の時代の始まりを告げる【アメリカ独立戦争(アメリカ独立革命)】が始まった
・この戦争は紆余曲折あって、植民地側が勝利。現代まで続くアメリカ合衆国が建国される事となる
・アメリカ合衆国の成立は、欧米系国家の中で二番目に古い、民主主義国家の誕生となった
⇒この独立戦争は[1775~1783年]と、八年に渡っている

・ところで、植民地側は何故、独立戦争で勝てたのか?
・植民地側が頑張ったというのもあるが、それだけでは説明がつかない
・何せこの時期のイギリスは、世界を支配する世界最強国家への道を踏み出しつつあったのである
・そんな国家への反乱が成功した背景には、フランス王国の支援があった
⇒当時の記録を見てみると、アメリカ独立戦争は「反乱を起こした植民地と、イギリス本国政府の戦争」ではなく「植民地の反乱をダシに、フランスとイギリスが代理戦争しとる」と思われていた節がある。それぐらい、フランス王国の支援は大きかった

・フランス王国とイギリスは、とにかく昔から仲が悪い
・直近では、七年戦争でイギリスが勝ち、フランス王国が負けた恨みもあった
・七年戦争の時点で財政破綻気味だったフランス王国は、それでもアメリカ独立戦争に国力を注いだ
・植民地を支援し、アメリカ独立を達成させて、イギリスに屈辱を味あわせ…
・そしてフランス王国の国家財政は、完全に破綻した
・フランス王国は、借金まみれの大赤字国家になってしまった

・多くの平民は重税に苦しみ、一方で貴族は腐敗して使い物にならない
・更に、一部の富裕な平民は、もっと自由に金儲けをさせろと不満を溜めていた
・最早フランス王国は、完全に詰んでしまっていた
・この状況で、平民の不満がついに爆発。反乱が発生する
・時は[1789年]。【フランス革命】の始まりであった

・フランス革命は、最初は「重税に苦しむ平民の不満が爆発」したものだった
・そしてまた、「人権を大事にしよう」「民主主義を実現しよう」という理想も伴っていた

・しかし。フランス革命はやがて、流血と暴力の群体へと進化した
・恐怖政治が布かれ、王も貴族も民衆も問わず、次々とギロチンの刃によって首が飛んだ
・恐怖政治に対する反乱も起きたが、本国政府はむしろ、反乱を起こした者を虐殺する始末であった

・この混乱を収拾したのがかの有名なナポレオン・ボナパルトだったが…
・彼は、欧州全域を征服しようと大戦争を開始する
⇒戦争自体はナポレオン登場前からやっていたのだが、「ガチで欧州征服やり始めたのはナポレオンですよね?」と言われたら「はい」となる。ナポレオンは実際、欧州征服まであと一歩というところまで行くが、それは彼の野望の大きさ、そして軍事的天才があってこそだった

・フランス革命勃発に端を発し、欧州全域を巻き込んだ戦争は、足かけ二十年に渡った
・欧州征服まであと一歩まで迫ったナポレオンが完全に敗れた1815年、フランス革命は完全に終わった
・そしてこの大戦争の間に、民主主義、そして人権という概念は、欧州全域へ広がったのである
⇒「民主主義だの人権だの言ってたフランス革命が最後には、恐怖政治&欧州征服マシンになっちゃったじゃん」というのは事実なので、戦争が終わったらすぐに、欧州各国が民主主義を採用する訳ではない。しかし、この戦争を通して「民主主義」そして「人権」という理想は欧州各国に広がった。人々は、「俺達も民主主義やりたい」「俺達の人権を守ってくれ」と思うようになった。結果、ナポレオンの敗北から半世紀もしない内に、欧州各国は「民主主義」と「人権」という概念を採用するようになるのである

近世・近代・現代史概略~人権の拡大 ワークシート 現時点での模範解答

●世界大戦期までの特徴

○概要

・ここまで、革命の時代までの歴史をざっくりと見てきた
・この後の資本の時代と帝国の時代は、詳しく説明しなければいけない激動の時代ではない
・ざっくり、「欧米諸国が世界中の国を征服して植民地にしていく」時期だと思っていればいい
・そして帝国の時代の後、世界大戦期以降の話は、政治分野第四章でまた取り上げる

・故に歴史の概略は一旦、ここまで。ここからは近世から現代の、時代ごとの特徴を見ていく事にしよう

〇市民革命期の特徴

・ここまで見てきた名誉革命やアメリカ独立革命、フランス革命は、市民革命と呼ばれる事が多い
⇒こういった市民革命が起きた時代を、政経の教科書や参考書では「十八世紀」と表現する事が多い。十八世紀とは勿論、1701年から1800年を指す。が…知っての通り、名誉革命が起きたのは1688年、フランス革命が起きたのは1789年でも完全に終わるのは1815年である。それでも、政経の教科書や参考書では「十八世紀」と言い切ってしまうパターンが結構あるので、注意しておこう

・市民革命が連続する時期、特に革命の時代には、以下のような特徴がある
1:【資本家】が主役の時代である
2:人権の中でも【自由権】が重視された時代である
3:自由主義国家が理想とされ、特に【夜警国家】こそが理想とされた

・資本家とは、ざっくり言えば、会社の社長や工場長といった層である
・革命の時代には産業革命が進行し、欧州では「機械で商品を大量生産する」ができるようになっていた
・故に会社を興し、機械を設置した工場を作り、社員を雇って働かせる金持ちが出てきた
・それこそが、資本家だったのである
⇒産業革命以前は、何をどうやったところで結局、商品の生産は手作りだった。それが産業革命によって、「機械で商品を大量生産する」ができるようになった

・資本家の求める事は、「もっと自由に経済活動させろ」「もっと自由に金を儲けさせろ」であった
・故にこそ、この時期に最も重視された人民の権利とは【自由権】であった
・自由、特に経済活動の自由である
※この時期の経済活動の自由重視路線は、イギリスの経済学者【アダム・スミス】(代表作【『国富論』】)によって理論化された。政府は何もせず、国民が自由に金儲けする事を認める【自由放任(レッセ・フェール)】主義によってこそ、国は発展する…という理論である

・そしてまた、この時期に理想とされたのは、自由を尊重する自由主義国家であった
・中でも、【夜警国家】こそが理想とされた
⇒いわゆる【小さな政府】路線の究極形、【国防・治安・最低限の立法や公共事業等、必要最小限の役割だけを担う国家】をこう呼ぶ。夜警国家という名前は、そのような国家を批判したプロイセン王国の政治学者、フェルディナント・ヨハン・ゴットリープ・[ラッサール]によるものである

近世・近代・現代史概略~人権の拡大 ワークシート 現時点での模範解答

○自由主義への反動1(世界大戦以前)

・革命の時代が終わった後も、基本的な枠組みは維持された
・時代の主役は資本家だったし、自由権は大事にされたし、理想国家とは夜警国家を指していた

・しかし、自由権の尊重は、厄介な問題を引き起こした
・資本家の言う「自由」は、結局のところ、自分達に都合のいい「自由」だったのである
例1:労働者を一日に14時間働かせる「自由」
例2:子供であろうとも過酷な労働に従事させる「自由」
例3:貧乏な労働者は選挙に行かせない「自由」

・そう、自由権を最大限尊重する国家(自由主義国家)は、国民の行動が政府によって制限されない
・しかし反面、「貧乏人が貧乏なのは、怠惰で無能だからだ。自己責任である!」になってしまう
・当然、労働者をはじめとする貧困層は、これに対する反動を強めていく
・革命の時代後期や資本の時代、帝国の時代に【参政権】が求められるようになるのは、この反動である
⇒「政治に参加する権利」、要するに選挙に出たり選挙に行ったりする権利である

・とは言え、資本の時代にしろ帝国の時代にしろ、革命の時代から続く枠組みは、維持されていた
・この枠組みは、二度の世界大戦(とその間にあった世界恐慌)によって崩れる事になる

近世・近代・現代史概略~人権の拡大 ワークシート 現時点での模範解答

〇自由主義への反動2(第一次世界大戦以降)

・市民革命以来の、自由権尊重の風潮への反動が極限に達して発生したのが、ロシア革命である
・第一次世界大戦中に起きたロシア革命は、市民革命には分類されない事が多い
・と言うのは、この革命は【共産主義(社会主義)】に基づく反乱だったのである
⇒「そもそも自由権を尊重した結果、貧乏人が困窮する事になったのは誰のせいだ?」「自由の美名の下に私腹を肥やし、労働者をいじめる資本家がいるからだ」「資本家を殺せ。皆殺しにしろ。そうすれば労働者は幸せになれる」「そして労働者による労働者の為の楽園を作るのだ」という、極端から極端へ行く人達。これが共産主義者(社会主義者)である、とざっくり考えるとよい

・そして共産主義者は、本当に金持ちを皆殺しにして、革命を起こす。ロシア革命である
・この革命によってロシア帝国は滅び、ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が誕生する
・そしてソ連は、世界各国に向けて「君達も金持ちを殺しましょうよ~」と言い始める
・また、「金持ちを殺しましょう」教宣教師を各国へ派遣していく
・これは第二次世界大戦の原因一つであり、また、冷戦の原因でもある

※「共産主義と社会主義って何か違うの?」と言うと、まぁ違うは違うんですが、ぶっちゃけこれは神学論争みたいなもんで、言ったもん勝ちです。「俺は社会主義だ!」と言えばそいつは社会主義、ぐらいの雑な認識で構いません。本稿では、ソ連をはじめとする政治勢力として言う時は共産主義、経済理論として言う時は社会主義で使い分けます

・当然、ロシア革命及びソ連の「金持ち殺しましょうよ」攻勢に一般自由主義国家の皆さんは恐怖する
・何せ、人権だ自由権だとか言って労働者を虐め過ぎたら、金持ち皆殺し国家が誕生したのである
・ロシア革命は明らかに、「自由権至上主義はやめましょう」という風潮の誕生に大きな役割を果たした
⇒他にも要因はあるが、一番大きな要因と言っても差し支えはないだろう

・こうして、自由権を多少制限してでも、【社会権】を重視しようという潮流が生まれてくる
⇒ざっくり言うと、「困窮する国民が、国家によって救済される権利」。健康保険制度を導入したり、貧困で食うにも困る国民に生活保護を与えたり、不況で仕事がない国民に公共事業で仕事を与えたりするのは、社会権の実現である

・そして、【社会権】を重視する【福祉国家】が、徐々に世界の主流となっていく
・即ち、【大きな政府】路線の【社会保障や、公共事業による雇用の創出などを重視する国家】である

例1:世界恐慌後のアメリカ合衆国は、ニューディール政策と呼ばれる公共事業を実施した
例2:世界恐慌後のドイツ国は、アウトバーンという高速道路を全国に建設する公共事業を実施した

※福祉国家が重視される時代の経済理論の基礎を提供したのは、イギリスの経済学者ジョン・メイナード・【ケインズ】。その代表作は[『雇用、利子及び貨幣に関する一般理論』]である

・第二次世界大戦が終わった後、冷戦期に至っても、「社会権重視」「福祉国家が理想」の枠組みは続く
⇒冷戦期は、アメリカ合衆国とソ連が世界を二分し対立していた時代。なので国民に悪い生活をさせると、「ほら見てください!」「やっぱこいつらクソですよ!!」と相手に宣伝されてしまう。故にこの時期こそ、最も社会権と福祉国家を重視する時代だったと言える

近世・近代・現代史概略~人権の拡大 ワークシート 現時点での模範解答

●世界大戦期以後の特徴

〇1980年代以降

・冷戦終結直前になると、福祉国家路線への批判が出てくる
・結局、福祉国家は「国民の自由をある程度制限」して社会権を重視する国家である
・人々がいい暮らしに慣れてくると、自由の制限が鬱陶しいと思うようになるのは当然であった

・また、1980年代ぐらいになると、福祉国家を志向する多くの国の経済が、伸び悩むようになった
・結果として、「福祉国家はもう駄目だ」「ケインズ的なやり方はもう駄目だ」という人が出てきた
⇒こういう、反社会権、反福祉国家、反ケインズ的な考え方を、まとめて【反ケインズ主義】と呼ぶ

・彼らは、【自由権】を重視した【小さな政府】路線を称賛した
・【財政赤字】解消、【政治腐敗】の防止等をお題目に、【小さな政府】路線の復活を提唱した
・こうして、【自由権】を重視した夜警国家的な国家が、再び人気を得るのである
⇒革命の時代前後、自由権を重視する考え方は自由主義(リベラリズム)と呼ばれていた。今回、一度自由が重視されなくなった後、新たにまた自由が重視されるようになった…という事で、1980年代以降の自由権重視思想は[新自由主義(ネオリベラリズム)]と呼ばれる事が多い

※同じ反ケインズ主義的な考え方として、[新保守主義(ネオコンサバティズム)]もある。小さな政府路線を志向するという意味で新自由主義とよく似た考え方であり、明確にここが違う、と指摘するのは難しい。「社会権なんていいんだよ、国民は自由にさせておけばいいんだ」という政治的な考え方が前者、「俺達国民に、自由に金儲けさせろ」という経済的な考え方が後者…と考えると分かりやすいかもしれない

・1990年代初頭になると冷戦が終わり、世界の共産主義者の親分だったソ連も消滅する
・結果、世界中の国家へ「金持ち殺しましょうよ」攻勢をする存在も消えた
・「労働者を虐め過ぎたら革命になる」という恐怖も、薄まった

・この状況では、復活した小さな政府路線が、止まる筈もなかった
・こうして、1980年代に始まった自由権再評価路線は、1990年代以降加速していく事になる

・1980年代に新自由主義を導入し始めた各国の政治指導者としては、以下の者が挙げられる
日本国:【中曽根】康弘内閣総理大臣
アメリカ合衆国:ロナルド・【レーガン】大統領
イギリス:マーガレット・【サッチャー】首相
※日本の場合、こういう流れを最初に始めたのは中曾根だが、決定的にしたのは【小泉純一郎】である


1980年代以降まとめ
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|:---:|:---:|
|1980年代以降の特徴|【財政赤字】解消、【政治腐敗】の防止等をお題目に、再び【自由権】を重視した【小さな政府】路線が流行する|
|【反ケインズ主義】|反社会権、反福祉国家、反ケインズ的な考え方|
|[新自由主義]
[ネオリベラリズム]|↑的な考え方で、「国民に自由に金儲けをさせろ」というような考え方。令和五年現在、日本では多くの場合この呼称が用いられる|
|【中曾根】康弘|1980年代、日本国で↑の導入を推進した内閣総理大臣|
|ロナルド・【レーガン】|1980年代、アメリカ合衆国で↑↑の導入を推進した大統領|
|マーガレット・【サッチャー】 1980年代、イギリスで↑↑↑の導入を推進した首相|
[新保守主義]
[ネオコンサバティズム]|反ケインズ主義的な考え方で、「社会権なんていいんだよ、国民は自由にさせておけばいいんだ」という政治的な考え方|

〇現代

・過度の経済的自由、過度のグローバル化から、以前何処かで見たような問題が起こっている
・即ち、↓のような自由が行使されるようになってしまった

例1:労働者の給料を極限まで減らす「自由」
例2:労働者を長時間働かせて残業代も払わない「自由」
例3:海外に工場を作って海外の人間を雇い、自国の労働者をクビにする「自由」

・結果として、令和五年現在、新自由主義への反発が起きている
・再び、時代は変化しつつあると言えるだろう

~雑談~

・歴史は、同じ話の繰り返しである
・もっと言えば、「それ前にやって駄目だったじゃん」の宝庫である
・自由権重視の風潮復活は、まさにその典型と言えるだろう

十八世紀以前、十九世紀 自由権重視
⇒金持ちが庶民を虐める
世界大戦期~冷戦末期(1980年代) 社会権重視
⇒庶民を守ろう!の時代
冷戦末期(1980年代)~現代 自由権重視
⇒金持ちが庶民を虐める
現代 自由権重視の風潮に不満が溜まる

・何で自由権を重視すると金持ちが庶民を虐めるのか
・言い換えれば、何故経営者が社員を虐めるのか
・これは、「自分が金持ちだったら」「自分が企業の経営者だったら」と思えば分かる

・例えば、「有能な社員」とはどのような者か?
・以下の二種類の内、どちらかを取るとなったら、どちらを取るか?

1:「一人で十人分の仕事ができる」「年収二千万円」を一人
2:「一人で一人分の仕事ができる」「年収百万円」を十人

・あなたが経営者なら、2を取る筈である
・ここで更に、以下のような選択肢が現れたらどうなるか?

3:「一人で0.5人分の仕事しかできない」「けど年収ゼロでいい奴隷」を二十人

・この3を、迷わず取る筈である。人件費ゼロで済むのだから
・つまり企業の経営者にとって、有能な労働者とは「能力がある者」ではない
・経営者にとっては「タダ同然の給料」で「いくらでも働いてくれる」奴隷こそが、有能な労働者なのだ

・そして、自由権が重視された社会というのは、国が民間の活動に口出ししない社会である
・つまり、企業が従業員を奴隷労働させていても、国は口出ししない
・しかも、企業と労働者なら、企業の方が強い
⇒「従業員に奴隷労働させるな!」と労働者が運動しても「うるせぇクビだ」で済む

・だからこそ、自由を重視した社会は「金持ちが庶民を虐める」構図になるのである

・世界大戦期以降、社会権重視の「庶民を守ろう!」の時代が来たのは、当然の帰結だったと言えよう
・なのだが、当然、これは金持ちからすると面白くない
⇒金持ちが儲けるには、庶民から搾り取るのが一番。それに、社会権が重視された社会は「金持ちから沢山税金を集めて、貧乏な人を助けるのに使おう」みたいな事もするので、「有能な俺が稼いだカネを、何で無能な貧乏人を助けるのに使わなきゃならねぇんだ」ともなる

・で、1980年代から、再び自由権を重視した社会へ切り替わっていった訳だが…
・当然ながら、「金持ちが庶民を虐める」社会にもなっていった
⇒この時、人々がちゃんと社会科を勉強していれば「いや、自由権重視ってもうやったじゃん」「やって駄目だったじゃん」になる筈だったのだが、皆社会科の勉強が嫌いなので…

・しゃかいかのべんきょうってだいじですね(幼稚園生並の感想)

~ここまで雑談~

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