小休止:現代的な国家の盲点とナショナリズム

※令和六年八月に本ページの内容を全面改訂しました。授業動画は改訂前のものです。改訂後の資料を使った授業動画は現在作成中です

●授業動画一覧

現代的な国家の盲点 YouTube
ナショナリズム YouTube

●本題

・ここまでやってきた話は、言ってみれば全て、一見「いい話」である
・特に人権の保障や、法の支配は、とても「いい話」である
・しかしここで、気を付けねばならない事がある
・人権や法は、「誰に対しても例外なく」適用される、という点である

・例えば法治主義や法の支配は「例え王であろうと法に従わねばならない」という発想である
・つまり、「誰であろうと平等に、法に従わねばならない」という発想と言える

・ところで、世の中には「こんな奴を税金で養ってるのかよ」みたいな生活保護受給者が実在する
⇒生活保護で支給されるカネは、勿論、「貧乏で生活に困っている人を助けよう」のカネである。そのカネを、パチンコやら酒やらに突っ込んでるような人はいくらでもいる

・同様に、世の中には、裁判になっても何の反省もしない犯罪者が実在する
⇒冤罪を主張しているならともかく、現行犯で明らかに有罪とバレてしまっている状態であれば、表面上だけでも反省するのが普通である。しかしそこで、「俺は悪くない」「俺は社会の害虫を駆除しただけで何も悪い事はしていない」と言い出す殺人犯は存在する

・このような人々に「人権」を認めたくないというのは、普通の感情である
・即ち、以下のように思うのは極めて一般的な、当然の感情である
例1:生活保護のカネをパチンコに突っ込むような奴は、生活保護をやめるべきだ
例2:反省しない殺人犯は、裁判なんぞせずに即刻死刑にすべきだ

・しかしここで思い出さねばならないのは、法治主義や法の支配の発想、その原則である
・即ち、「誰であろうと平等に、法に従わねばならない」という原則である

・だから、例えば生活保護法による貧者救済は、貧者の人格に関係なく行われねばならない
・だから、例えば裁判は、容疑者・被告の人格に関係なく行われねばならない

・そう。パチンカスだろうが極悪殺人犯だろうが、平等に、法の適用を受けねばならないのである
・その人格によって救う、救わないを決めるというのは、人の支配的な発想のなのだ

・人の支配が嫌なのであれば、こういった事も受け入れねばならない
⇒即ち、「法律には窃盗罪は罰金って書いてあるけど、お前はムカつくから死刑な」みたいな支配が嫌だと言うのであれば、法の支配や法治主義を採用する事になる。そうなると、「どんな人間の屑であろうと困窮しているのであれば救ってやらねばならない」「残忍な殺人鬼であろうと裁判や弁護を受ける権利は消滅しない」となる

・一見、いい事だらけの法の支配・法治主義だが、そういう盲点もある
⇒「この人はいい人だから救済する」「この人は悪い人だから救済しない」とかやると、「じゃあその判断は誰がするんだよ」「その判断する人の好みで決まっちゃうじゃん」という話になってしまうので、全員一括で救済する形になるのが、現代的な国家である

・同様に人権も、あらゆる人に対して保障される
⇒人情を寄せられる対象にだけ、人権や尊厳が与えられるのではない

・どんな人間の屑にでも、どんな残忍な殺人鬼にでも、人権は保障される
⇒法を犯せば処罰はされるが、その処罰も、法に則った捜査、裁判、弁護を経て執行されねばならない。「こいつはクソだから人権なんかねぇんだ」と言って私刑に処してはならない

・「人情を寄せられる対象にだけ人権や尊厳が与えられる」というのは、言ってみれば普通の感覚である
・友人、親戚、家族、親にカネを借りてパチンコしてるおっさんに、人権を認めたくない人はいる
・不潔で「キモ」いオタクに、人権を認めたくない人はいる
・エロ漫画家やAV女優に、人権を認めたくない人はいる
・こういう人達に人権を認めたいと思わない人は、世の中に沢山いるのである

・だが現代的な民主主義国家では、あらゆる人間に人権が認められ、法も平等に適用される
⇒既に述べたように、「この人はいい人だから救済する」「この人は悪い人だから救済しない」とかやると、「じゃあその判断は誰がするんだよ」「その判断する人の好みで決まっちゃうじゃん」という話になってしまうので、全員一括で救済する形になるのが、現代的な国家である

・この話は、人情が自然と集まるようなタイプについては、人権や法の支配は重要ではない、とも言える
・貧乏でも清廉潔白で、地道に努力していて、周囲が自然と助けてあげたくなるようなタイプである
・そういうタイプは、人権やら法の支配やらがなくても、誰かが助けてくれる

・一方、誰もが嫌いで反吐が出るような人は、放っておけば誰も助けてはくれない
・どころか、迫害され、私刑の対象にすらなり得る
・故に、そういう人達こそ、人権や法の支配によって救済せねばならない、とも言えるのである

・人権や法の支配というのは「思いやり」とか「かわいそう」というような感情とは関係ないのだ
・むしろ「思いやり」の無い人や、「かわいそう」とは思えない人を救うのが、人権や法の支配である
⇒もっと言えば、人権とは「自分にとって不快な誰かの存在を我慢する」事を要求するものである。そうであるからこそ、「自分が誰かにとって不快な存在であっても構わない」となるのである

・無論、「思いやり」の無い人や、「かわいそう」とは思えない人は救いたくない…と思うのは自由である
・現代日本では、日本国憲法で、内心の自由が保障されている
・どんな思想を持ってもいいと、憲法が保障している
・但し、「キモい奴は救いたくない」のであれば、法の支配や天賦人権という発想を採用するのは難しい
⇒「思いやり」の無い人は排除されて当然。差別したいものはしたい。「かわいそう」とは思えない人は救いたくない。キモい奴への弾圧は差別ではなく区別。…そのように思うのであれば、人の支配を採用したり、人権が一部の国民にのみ認められる国を目指す事になる


・勿論、「人の支配が採用される国を目指したい」と思う事もまた、憲法で保障された内心の自由である
・「かわいそう」とは思えない人には人権を与えない国家を目指すのは、自由なのだ
・と言うか、そういう国家はかつて、流行であった
・第二次世界大戦直前、そういう国家は流行の最先端であった
・即ち、社会主義国家たるソ連、ファシズム国家たるイタリア王国やドイツ国である
⇒これらの国々は、まさに、大衆の「キモい奴を排除したい!」という気持ちに寄り添って作られた国家である。「キモい奴を排除したい!」という気持ちを大事にするのであれば、全体主義的な国家こそ、模範となる

・繰り返しになるが、現代日本に於いては、どんな思想を持とうが自由である
・「キモい奴を排除したい!」という思想であっても、持ってもよいのだ
・ただ、思い違いをしないようにした方がいいとは言えるだろう
⇒「民主主義は素晴らしい!」「人権は全ての人に認められた権利だ!」と言いながら、「「思いやり」の無い人や、「かわいそう」とは思えない人は救いたくない」と言い出すのは、完全に矛盾である。傍から見れば、「頭が悪いのかな?」で終わりである。勿論、そういう矛盾した思想を持つ事含めて内心の自由なのだが…まぁ、そうはならないようにしたいですね……

○ナショナリズム

・ところで、この「全員一括で救済する」というのは、[ナショナリズム]と共に発展してきた
・ナショナリズムは、[国民主義、国家主義、民族主義]などと訳される
・特に十九世紀中葉以降、欧州各国で盛り上がったものである

・ナショナリズムとは何か
・仮に「1民族1国家」として「国境線の内側にいる者は同胞として助け合おう」…という思想である
⇒例えば日本なら、「日本では、日本人であるというただそれだけで生きる価値があり、助けられる権利がある」という感じ

・一般に、自国民以外は助けない排外主義的な思想と捉えられがちである
⇒義務教育で、「ナショナリズム=クズの発想」みたいな感じで教育を受けてきた人は多い筈である

・だがナショナリズムは、理想と共に発展してきた思想でもある
・と言うのは、実力主義社会では、どうしても↓こうなりがちである

「国籍も性別も人種も肌の色も宗教も関係ない。富める者は有能であり、有能な者は皆兄弟である。え? 貧乏人? 無能が貧乏なのは自己責任だろ努力しろ。貧乏から抜け出せないのは無能で怠惰だからだ」

※産業革命以降の社会は基本、実力主義的な社会である。このような社会に於いて、大抵の金持ちは勤勉である。金持ちこそよく勉強し、よく働く。だからこそ、「自分が成功したのは勤勉だからだ」と思うようになる。そしてこれの裏返しは、「貧乏人が貧乏なのは、真面目にやっていないからだ」「怠惰な貧乏人は同情に値しない」となる。で、結果的に↑のような極端な考え方に至ってしまう

・ナショナリズムは、この実力主義とは相反する部分がある
⇒ナショナリズムには、「それぞれの国境線の内側までは、それぞれの民族、国民が責任を持って助け合いましょう」「金持ちも貧乏人も、同胞同士助け合いましょう」というような理想主義的な側面がある

・勿論、これが暴走する事はある
・排他的になったり、帝国主義と結びついて他国を征服しようとし始めたりする場合もある
⇒ただ、一見唾棄すべき排外思想と思われがちなナショナリズムも、そういう背景がある事は覚えておいた方がいいだろう。また、世界の人民は皆兄弟であるというようなコスモポリタン思想も、「人類は皆兄弟」「無能は除く」「キモい奴は除く」になりがちという点は、覚えておいた方がいいだろう

・尚、世界的な傾向として、2020年前後を機にナショナリズム復活の機運が見られる
・これは、1980年代から始まった自由権重視の実力主義社会への反動と言えるだろう
⇒自由権重視の社会は、自由な競争を肯定する。競争は、どうしても勝者と敗者が出る。「それでいいんだ!」というのが競争を肯定する自由権重視の社会であり、自由権を重視した社会はどうしても実力主義になる。となると、「有能な者は兄弟。貧乏人は無能なだけだろ努力しろ」という風潮が強くなる。その反動として、各国がナショナリズムを見直す傾向にある。その結果の一つが、アメリカ合衆国のトランプ人気やイギリスのブレグジットと言えるだろう

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